社会の規範が崩壊することによる無規範状態、アノミーが原因と思われる事件が後を絶たない。
最近、この種悲劇的な事件が2件も起きた。
長崎市の市立小学校6年の女子児童の自殺未遂事件と、広島・呉市の16歳女子殺害事件である。
前者は、修学旅行の班決めで同じ班になった同級生の1人が他の3人に仲間外れにしようと呼びかけたが、3人は同意せず担任に相談した。
同級生は謝罪したが、女子児童は2日後に自殺を図った。女子児童にとっては、最も楽しかるべき心弾む修学旅行をまえに、仲間外れにされようとしたこと自体、耐え難い苦痛であったのだろう。察するに余りある。せめてもの救いは、3人がいじめに同意しなかったことであろうか。
後者は、同じ16歳の女子が互いに仲違いし、一方が殺害されるという荒んだ痛ましい事件であった。
この事件で注目すべきは、被害者・加害者双方ともに面識もない同じ16歳の2人の少女が加害者として凶行に加わっていることである。
この2つの事件に共通していることは、いじめ、もしくは凶行に加わった主体が、一人ではなく複数人で係わろうとしたことであり、被害者は一人であるが、この被害者は、状況によってはいつでも他と換わりうることである。
このことは、その場の空気によって誰でも簡単に加害者にもなり被害者にもなり得ることを示している。
だれかが、いじめ、もしくは凶行の空気をつくろうすると、もちかけられた関係のない人もその空気に逆らえない。さもないと自分が被害者になりかねないから。
かくして救いようのない事件が後を絶たない。
犯罪はいつの時代でもおこるし、犯罪者が絶えることもない。
が、忌み恐るべき事は普通の人間がいとも簡単に犯罪に巻き込まれる可能性があることを上記の事件は示していることである。
何か得体のしれない ”空気”により醸成された犯罪に。
空気による犯罪に巻き込まれる原因は、社会における無連帯、無規範である。特に若者の間の連帯がズタズタに引き裂かれていることに起因している。
敗戦後わが国を襲った急性アノミーは、未だ亡霊のごとく付きまとって離れないでいる。
特に、戦後教育でなされた、自虐史観教育と受験戦争は急性アノミーを一段と助長した。
自虐史観教育は、自国に対する誇りを奪う教育であり、最近とみに、中韓両国からこれを逆手にとった発言が目立ち、ややもするとわが国において自虐史観教育が拡大再生産されかねない危険な情勢になっている。
自国に誇りをもてない国民の間にどうして連帯感が生まれようか。
受験戦争は、同世代の仲間をすべて敵と見立てる教育システムに外ならない。これでは、若者の間に連帯感が育ちようがない。
こういうとすぐ受験戦争は、いつの時代でもあったではないかという反論がくる。
たしかにあったかもしれないが、戦後の受験戦争のように教育の本来の目的から外れることはかってなかった。
しからば、教育の本来の目的とは何か。
答え、人間らしい人間を作ることである。
機械のような画一人間を作ることが教育の本来の目的である筈がない。
独裁国家ではあるいはそういう教育がなされるかもしれないが、それは教育ではなく洗脳と言うべきだろう。
すくなくとも、現在の画一式の○X試験、受験年齢の低学年化などとは縁遠いものであった。数多くの受験生から、単純に反射神経に優れているものだけを機械的に選りすぐる受験戦争ではなかった。
連帯なき社会は、病める社会であり、混迷し、やがて犯罪の温床と化す。そこでは、ごく普通の人間が信じられないような行動をする。
凶悪事件を起こした犯人について、日ごろ犯人をよく知っている人の感想を新聞やテレビでときどきみかける。曰く
「ごく普通の礼儀ただしい、おとなしい、いい人でした。あんな事件を起こすなんて今でも信じられない」 と。
無規範、アノミーが人を狂気にするなによりの証左がこの感想にこめられている。
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