空気の束縛という原因不明の捉えどころの無いものが、猛威をふるっている。
日本社会では、空気による呪縛が山本七平によって指摘されて久しい。
ネット社会になって空気による呪縛がますます勢いを増している。ネットの世界で、異端と思われる発言があれば集中砲火をあび炎上といはれる現象になる。ネットの世界では顔がみえないだけに炎上の度合いが、加減を弁えずに極端になりがちである。
また日常の会話では、場の空気を読めない人を指す、KYという俗語まで誕生した。
山本七平は、彼の著書、空気の研究で、近代の日本社会は、空気によって支配されており、重要な決定は、論理的に積み上げられた結論によってではなく、その場の空気によって決定される、と自らの経験および先の大戦時の戦艦大和の出撃決定の経緯等、数々の例証を挙げながら論じている。
また、日本人が宗教的に寛容だという人に対し疑問を投げかけている。
空気という呪縛は、ある一点に触れた場合には、おそるべき不寛容を示し、その人の人権も、法的・基本的権利も、一切無視して当然だとする。
また空気の呪縛は、法律以上の力をもち、感情移入を絶対化した臨在感を醸成し、人々を狂乱状態に陥れ、その対象とされた人間からあらゆる法の保護を剥奪する。
空気の呪縛に逆らった行為は、時として、宗教裁判よろしく異端として、抗空気罪の厳罰に処せられるのだ。
我々の日常生活を見回してみても、空気という呪縛は、至る所に充満している。
例えば、かしこまった席では、物事の建前ばかりがまかり通る。 空気の束縛で誰しも本音が言えないのだ。たまに本音を言う人がいれば、その人は、場を弁えない非常識な人という烙印を押されてしまう。
また非日常的な事態に遭遇した時、空気による呪縛は、その姿を暴力的に現わすときがある。
昭和天皇の病状が一進一退していたときの自粛ムードがその典型であろう。
このときの自粛の空気は、眼に見えない強制力があり、国民全体を不自然なまでに縛り付けた。
公的なすべてのお祭りやイベントが中止になるだけでなく、個々人の慶賀、イベントも自粛という名のもとに中止となった。
この空気に抗して強行する人は殆どいなかった。
国民の間に慶賀やイベントを許す空気など全くなかったのである。このため、関連する仕事に従事する人は、商売あがったりで悲鳴をあげた。
この自粛は、昭和天皇の病状を心配するというよりも、自粛という概念が、恰も全体主義のスローガンの如く一人歩きした社会現象であった。
そこには内面的なものは一切なく、外面的なものだけであり、暗黙の了解事項となった。
内面性が全く無視され道徳的にも退廃を来たした。人々はただひたすら、自粛という空気の呪縛になすがまま、自粛のための自粛に突き進んだ。
昭和天皇の病状を気遣うための自粛が、全く違った別のものになってしまった。
この出来事は遠い昔のことでなく、ほんの四半世紀前のことである。大戦を境に日本人の精神構造が生まれ変わったと考えるのは幻想にすぎないようだ。肝心の根元の部分では何も変わっていないといはざるを得ない。
この時の自粛現象は、太平洋戦争に突入した当時の軍国全体主義に重なるところがある。
両者に共通するのは、だれが始めたのか、だれが命令を下したのかはっきりわからない、責任の所在のなさである。
誰かの命令一下によって、なされたのではなく、原因不明のまま、ずるずると空気の力により、なんとなく突入したのである。
空気の力によって突入したのであるから、論理的に説明できないし、責任の所在もわからない。
この四半世紀前の出来事が、近い将来、姿を変え、再びおきないという保証はどこにもない。
山本七平が論証したように、空気の呪縛により導かれた結論は、科学的・論理的に導かれた結論などではなく、なんの根拠もない、その場の空気によって導かれたものであり説明不可の結論である。
それ故、その結論は時として危険極まりないものにもなりうる。
将来日本の運命を決しかねない事態に直面して、その決断が空気の支配によってなされたら、過去と同じような悲惨な結果がもたらされる可能性を否定できない。
日本人は、はたしてこの残酷な空気による呪縛から逃れられるのだろうか、またこの空気による呪縛は日本だけの特有の現象なのだろうか。引き続き考察したい。
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