アメリカが覇権国になり得たのはアメリカ社会に同化した移民の力によるところが大きい。彼らの貢献なければアメリカが覇権国になることもなかったであろう。
「同化は歴史的にアメリカがなしとげた大きな成功であり、なかでも文化面での同化がいちじるしく、それはおそらく最大の成功と言えるだろう。
同化によってアメリカの人口は増大し、大陸全体を支配するようになり、活力と野心にあふれ、献身的で有能な何百万人もの人びとが加わったことにより経済を発展させることにもなった。
これらの人びとは全面的にアメリカのアングロ・プロテスタント文化とアメリカの信条の価値観を信奉するようになり、アメリカを世界のなかの主たる勢力に押し上げた。
この功績は過去のいかなる社会にも類を見ないようなものだが、その根底には暗黙のうちに交わされた契約があり、ピーター・サランはそれを『アメリカ式の同化』と名づけた。 この暗黙の了解によると、移民がアメリカ社会に受け入れられるのは、英語を国語として受容し、アメリカ人としてのアイデンティティに誇りをもち、アメリカの信条の原則を信じ、『プロテスタントの倫理(自力本願で、勤勉、かつ道徳的に正しいこと)』にしたがって生きていればこそだった、とサランは主張する。
この『契約』の具体的な表現については、人は意見を異にするかもしれないが、その原則は1960年代にいたるまで何百万人もの移民をアメリカ化するなかで現実化したものの核心を突いている。」
(サミュエル・ハンチントン著鈴木主税訳集英社『分断されるアメリカ』)
アメリカは移民と同化の国である。同化とはアメリカ化を意味し、ほとんどアメリカの文化と似ているヨーロッパからの移民の同化である。
「比喩として適切なのはメルティング・ポッドではなく、ジョージ・スチュアートの言葉を借りれば、卑金属を貴金属に変える『トランスミューティング・ポッド』なのだ。」(前掲書)
ヨーロッパからの移民がいかにアメリカの発展に貢献したか、この比喩はそれを端的に表わしている。
だがこの移民の同化は1965年の移民改正法(ハート・セラー法)を境に様子が一変する。
1965年の同改正法は、出身国割り当て制限を撤廃し、西半球出身者と東半球出身者という大まかな枠で移民数を決定し、特別な技能を持つ人材を積極的に受け入れるようになった。
この改正法で極めて優秀な人や優先順位の高い労働者ほか望ましいスキルを持つ人にもビザが割り当てられた。
この改正法は米当局の目論見を大きく外れた。
自らも幼少期にキューバからの移民でおよそ三十年間経済学の世界で移民の研究に携わってきたハーバード大ケネディスクールのジョージ・ボージャス教授は言う。
「移民政策の変更がもたらす影響について専門家が予測するとき、その内容については懐疑的になるべきだ。
専門家がいかに予測を間違うのか、1965年の法改正はその典型的な例となった。
例えばロバート・ケネディ司法長官は、1964年の下院小委員会でアジア人移民の推移を尋ねられたとき、『最初の年は五千人の移民が見込まれるが、それ以降は大規模な移民の流入を予想していない』と自信ありげに述べた。
またその一年後、ニコラス・カッツェンバック司法長官は同委員会で次のように述べている。
『現在の西半球の国々(南北アメリカ)からの移民の数を見れば、こうした国々から米国へ移住しようとする勢いはそれほど強くはない。相対的に言えば、移住を希望する人々はそれほど多くはない』
結局、これらの予測は大きく外れた。彼らは、1965年以降の移民を特徴づける大きな二つの人口動態の変化を完全に見落としていた。
出身国としてアジアの存在感の増大とラテンアメリカからの移民の急増だ。」
(ジョージ・ボージャス著岩本正明訳白水社『移民の政治経済学』)
1965年の改正法は移民人口動態の分水嶺となった。地域別移住者数のグラフでもそのことがはっきりと分かる。
この移民人口動態の激変は当然のごとくアメリカ社会の労働市場や経済的利益に影響した。
その影響の度合いは時を経るごとに資本主義や民主主義の根幹を揺るがしかなないほど大きくなっていった。
1960年代はアメリカが世界で唯一の超大国に向けて成長していく最中にあったが、同時に凋落の種もまかれていた。
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