日本語に主語がないのは言語上現れていないだけであって認識上なければならない。
このように主語は省略されているにすぎないと主張する主語必要論に対し、日本語に主語はいらないと主張するのが主語廃止論である。
前者は主に文法理論を重視する人たちであり後者は日本語教育の現場に携わっている人たちである。
カナダで長らく日本語教師をしている金谷武洋氏は主語廃止論者の一人である。主語省略説には真向から反論している。
「日本語の基本文は主語を含まない。述語一本立てなのである。
主語を認めると、無数の『主語なし文』に『省略』という別な説明を持ち込む必要があるが、これは多くの場合正しくない。
よく料理の本や各種取扱い説明書などに出てくる『秋刀魚を三枚におろします』とか『電源が入っているか確かめる』には、省略されているはずの『主語』が見つからない。
もし『私たちは』などと考えるなら『他の人たちはそうしませんか』という意見が加わって違う文になってしまう。 『どうして来なかったんですか』という文でも、主語と見られる『あなたが』をつけると『他の人がきた』という意味が加わってしまう。
意味が変わるとしたら、もはやこれらは『省略』ではないことは明らかだ。
その他、よく引用される三上章の文だが『黒板に【明日は休み】と書いてあった』や『いい陽気になりましたね』などにも『主語』はない。」
(金谷武洋著講談社選書メチェ『日本語に主語はいらない』)
主語廃止論者は主にアカデミック環境に身をおかない教育現場の人たちであることは記述した。
その中心的な人物は「街の語学者」三上章であろう。彼は論文や著作を通じて日本語文法学界に挑戦状をたたきつけた。
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