日本語については時代の節目でこれを見直そうという議論が起きた。比較的最近では敗戦後、漢字を全廃しひらがなにする案や小説家の志賀直哉がエッセーで日本語を廃止してフランス語を採用したらどうかと提案した。
今から見れば奇抜にみえるが当時はマジメに議論された。敗戦直後にわが国を覆ったアノミーがその原因であったのだろう。
さすがにそのような主張は受け入れられなかったものの敗戦が日本語に影響したことは確かである。文章が文語調から口語調に変化し、英語的言い回しや文法が重視がされるようになった。
時代を明治維新まで遡ればこれと同じような現象があった。初代文部大臣森有礼は英語の公用語化を、郵政創設者の前島密は漢字を全廃しひらがなの国字化を主張したがいずれも採用されなかった。
明治維新で日本人の生活は一変したが当然ながらこのことは言語にも及んだ。手紙は候文(そうろうぶん)があたりまえのように使われていたが、これを改めて言文一致でいこうということになった。
候文はじめ従来の日本語の文章の型が崩れていった反面、日本語が論理的表現により適応した言語となった。
そして今や森羅万象のことを日本語で表現できないことはなく外国の文献も日本語に訳せないものはないまでになった。
だが表現できることと言葉として人に訴えるものは別である。
言葉の世界でリードすべき人たち、たとえば学者、政治家、官僚、ジャーナリズムの人たちの日本語がはたして国民に訴え感動させるものがあるだろうか。
霞ヶ関文法と揶揄される官僚の文章の難解さはとても国民向けとは言えないし、政治家の紋切り型の演説は聴衆を感動させる雄弁家のそれとはほど遠い。
彼らが分かり難い紋切り型の言葉で語れば語るほど人民の心は離れる。
言葉が人を相手にする以上それは論理的で感情豊かなものでなければならない。言語の機械化がすすむ現代ではなおさらそうである。
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