2018年9月17日月曜日

ガブリエルの新実在論 3

 自然主義者や無神論者は宇宙を存在する唯一の対象領域と見なし、すべてはこの中で自然法則にしたがって素粒子が移動したり、影響を与えあっているにすぎずそれ以外のことは存在しないと主張する。
 いわゆる唯物論的一元論である。ガブリエルは宇宙というひとつの超対象を要請するという点でこの論理は既に破綻しているという。なぜなら超対象とする世界像は存在しないのだから。

 「わたしたちには、世界を外から眺めることができませんし、したがって、わたしたちの作った世界像が妥当なものかどうかを問うこともできません。
 それは、まるですべての写真をー写真機それ自身の写真を含めてー撮ろうとするようなもので、およそ不可能です。
 写真機それ自身が写真に撮られて現像されたとしても、その写真に撮られた写真機は、当の写真を撮った写真機と完全に同一ではないからです。」
(マルクス・ガブリエル著清水一浩訳講談社『なぜ世界は存在しないのか』)

 ガブリエルはなぜ存在の対象を広げたのだろうか。そのわけは上に述べたように唯一の超対象が存在しないかわりに無数の対象が存在しているからであるという。


 「自然科学は、それ自身にとっての対象領域を研究しているのであって、正しいこともあれば間違うこともあります。(中略)
 これにたいして哲学は、古代ギリシアでも、古代インドや古代中国でも、そもそも人間とは何かということを当の人間が自問することから始まりました。
 哲学は、わたしたちが何であるのかを認識しようとするものです。
 つまり哲学は、自己認識の欲求に発しているのであって、世界を記述する公式から人間を抹消したいという欲求に発しているのではありません。」(前掲書)

 ガブリエルは科学優先の風潮にも懐疑的である。

 「科学的世界像がうまくいかないのは、科学それ自体のせいではありません。
 科学を神格化するような非科学的な考え方がよくないのです。
 こうなると科学は、同様に間違って理解された宗教に似た、疑わしいものになってしまいます。
 どのような科学も、世界それ自体を明らかにするわけではありません。(中略)
 世界は存在しないという洞察は、わたしたちが再び現実に近づくのを助け、わたしたちがほかならぬ人間であることを認識させてくれます。
 そして人間は、ともかく精神のなかを生きています。精神を無視して宇宙だけを考察すれば、いっさいの人間的な意味が消失してしまうのは自明なことです。」(前掲書)

 存在もしない唯一絶対の超対象。これに捉われている限り議論は空まわりする。われわれは多様な存在に眼を向けるべきである。

 「ほかの人たちは別の考えをもち、別の生き方をしている。
 この状況を認めることが、すべてを包摂しようとする思考の強迫を克服する第一歩です。
 じっさい、がからこそ民主制は全体主義に対立するのです。
 すべてを包摂する自己完結した真理など存在せず、むしろ、さまざまな見方のあいだを取り持つマネージメントだけが存在するのであって、そのような見方のマネージメントに誰もが政治的に加わらざるをえない ー この事実を認めるところにこそ、民主制はあるからです。
 民主制の基本思想としての万人の平等とは、物ごとにたいしてじつにさまざまな見方ができるという点でこそわたしたちは平等である、ということにほかなりません。
 わたしたちに思想の自由という権利があるのも、そのためにほかなりません。」(前掲書)

 これでガブリエルの意図が見てとれる。それは人間を排除した哲学から人間を取り戻すことおよび唯一絶対を信奉する全体主義から多様な民主主義を志向することにある。

 つぎにガブリエルの新実在論が人びと与える影響を考えるにあたりまず彼の哲学上の立ち位置がどの辺りにあるのか見てみよう。

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