神道の土着の神々と飛鳥奈良時代以降すっかり習い性となった仏教の因果律、この二つが大多数の日本人が腹の底から信じかつ信仰の対象としているものである。日本人のエトスからこう言える。
前者は本居宣長が定義したカミである。日本の神社の起源の殆んどは祟り神である。
人びとが祟りを鎮めるために祀っているうちにいつのまにか祟り神が善神に変身する。
たとえば大宰府へ左遷された菅原道真の死後、天変地異が多発しこれを祟りと畏れた人びとが怒りを鎮めるために祀ったカミがいつのまにか学問の神様になった。
後者は善行を積めばよい報いがあり悪行を行えばそれなりの報いがある。
そのため現世だけでなく来世のためにも熱心に神仏を拝む。お天道様が見ている。悪いことをすればいずれ天罰が下る。
ところがキリスト教の予定説は因果律とは全く異なる。神が決めたことは絶対である。変更の余地などない。
どんなに善行を積もうが、熱心に拝もうが神の決定を覆すことなどできない。これが予定説の本質である。
因果律の思考が身に浸みついている日本人にとってはとても理解し難い。驚き以外のなにものでもない。
ところで宗教に関しては日本ほど異質なところはない。日本には仏教、儒教、キリスト教と伝来したが、日本人はそれら宗教の戒律をことごとくとり払いまたは骨抜きにしてもとの宗教とは似ても似つかぬ日本独特のものにした。
このようなことが許される日本は宗教の無法地帯と言われても反論の余地がない。
だが山本七平氏はこれを宗教無法地帯と言わず日本教と名づけた。
日本に入ると、仏教は日本教仏教派、儒教、キリスト教も同じく、日本教儒教派、日本教キリスト教派となる。いずれも日本教に吸収されてしまう。
宗教には教義が欠かせない。ところがどの宗教も日本に入ると戒律をとり払われるため教義も無くなってしまう。
教義を欠いた宗教に宗教性はない。人びとは教義に則って物事を理解し判断する。これなくして宗教とはいえない。
ところが日本にはこれに対応するものとして「空気」があるという。
これを発見したのは日本教の命名者でもある山本七平氏である。
空気は一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の教義に劣らず人びとを呪縛する。一神教において教義は神との契約でありこれを守ることは絶対の義務である。
これと同じように日本人にとって空気は絶対である。これに逆らうこともできないしこれから逃れることもできない。日本人にとって空気はそれほどの強制力をもつ。
たとえば、太平洋戦争前、開戦の是非をめぐって日本海軍内で激論が戦わされたが最後に決定したのはその場の空気であった。
敗戦後の1980年から11年間、130回余にわたる海軍反省会が行われた。その会での関係者の証言がある。
400時間にもおよぶテープのなかで複数の出席者が語っている。
「会議は主戦論で覆われとても反対できるような雰囲気ではなかった。あのときの空気はその場にいたものにしかわからない。」(NHKスペシャル)
あらゆる生活の場で空気が日本人を呪縛する。宗教に関しても同じである。このため日本においては空気が教義の役目を果たしている。
ということは空気が日本人のエトスを規定している。このようなことは日本以外では見られない。
われわれはなにを信じようとも空気が支配し空気が呪縛する社会に生きている。空気が教義となっている日本教から逃れることはできない。
これから逸脱することもできるだろうがそうすれば生きていけない。凧のひもが切れ無連帯となりアノミーとなるからである。
ところで契約とか目的合理的精神など近代化に不可欠なものは日本的な空気とは無縁の存在である。
これをわきまえた明治政府は一神教であるキリスト教にかわるものとして天皇を中心とした国家神道の政策により近代化に成功した。しかし太平洋戦争敗戦を機にこの体制は瓦解した。
戦後一時期繁栄を遂げたものの永続せず社会的混乱、国力の衰退は時とともに度を増している。根本的原因は明治政府が確立した体制の崩壊にある。
無宗教国家と揶揄されることになんとも思わない、むしろ自分は無宗教であると誇らしげにいう人さえ現れるまでに至った。
だが近代法、近代科学、資本主義、民主主義これらすべては西欧のキリスト教文明に淵源をもつ。日本的な思考形態に閉じこもっていては国際的に孤立するばかりである。
日本に生まれた以上日本教の呪縛から逃れなれないにしても国際社会で生きていくうえでは日本人には難解でも他の宗教の理解は不可欠である。
敗戦を機に失われた精神のよりどころ、宗教意識の希薄さが社会の混乱と国力の衰退の第一の原因であることはほぼ間違いない。
一時は復活したかに見えたがそれは過去の残滓にすぎないことも分かった。
メディアを賑わす官民の不祥事、モラルの低下は目を覆わんばかりである。
日本が近代化に成功したのは国家主導とはいえ強力な宗教的支えがあったればこそである。
滅びるも宗教、救われるも宗教、個人も国家も、宗教にはそれほど潜在的な影響力がある。
もはやかっての国家神道に戻ることはないだろう。さればいかなる道がのこされているか。答えは容易ではない。
だがここまで考察したところによれば既存の宗教をもっと理解することこれ以外にない。新興宗教はそう容易に現れるとは思えない。
既存の宗教のなかではユダヤ教やイスラム教はその戒律の厳格さから日本人にはあまりにも遠い存在である。
仏教は戒律をとり払ってしまったためいまや宗教の体をなしていないまでになってしまった。
かかる理由で既存の宗教の中ではキリスト教が主な研究対象となるであろう。近代化の揺籃となった宗教の研究という意味においてもそうである。
なお研究対象と信じることは別とはいえそこは宗教である。截然と分かれていて無関係とも一概にはいえない。敗戦を機に瓦解した精神のよりどころの復活はこれらの研究から生まれるであろうことを信じて止まない。
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