大衆の力が増し、優れた少数者を排除する社会とはいかなる社会か。それは他者への共存、隣人を尊敬する自由主義的デモクラシーを破壊する社会である。
自由主義的デモクラシー社会においては国家権力は強大であるにもかかわらずその行使を制限し、多数と異な少数の人々が生きていけるよう配慮する。この寛容さこそが自由主義である。オルテガは自由主義を絶賛する。
「自由主義とは至上の寛容さなのである。われわれはこのことを特に今日忘れてはならない。
それは、多数者が少数者に与える権利なのであり、したがって、かって地球上できかれた最も気高い叫びなのである。 自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する。
人類がかくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到着したということは信じがたいことである。
したがって、その同じ人類がたちまちそれを廃棄しようと決心したとしても別に驚くにはあたらない。自由主義を実際に行なうことはあまりにもむずかしく複雑なので、地上にしっかり根を下ろしえないのである。」
(オルテガ・イ・ガセ著神吉敬三訳ちくま学芸文庫『大衆の反逆』)
1920年代欧州ではファシズムとボルシェヴィズム運動が台頭していた。オルテガはこの風潮を深く懸念した。
歴史が示すように彼の懸念は不幸にも現実となり人類は第二次世界大戦に突入した。
少数者に耳をかさない大衆の暴力が悲劇をもたらした典型的な例である。なぜ少数者を排除する風潮がうまれたのか。
煩瑣な手続き、規則、長引く裁判、調停、正義等々自由主義はむずかしい。
これらは洗練されてはいるが複雑である。野蛮な直接行動と相容れない。だがそれは文明の特徴でもある。
人と共存すること、自分以外の人へ意を用いることが文明の基礎でありこれを欠いた社会は未開であり野蛮である。
つぎになぜ人への配慮を欠く社会が生まれるかが問題である。
「良家の御曹子」ということばには、世間知らず、わがまま、過保護など否定的なイメージがつきまとう。自分の特権をあたかも空気のように自然物と錯覚し独善的となり自分以外の人へ意をつくすことがない。
甘やかされて育ったため家庭内のわがままが外でも通用すると考える。
彼がやれることといえばなにか。ただ一つ遺産相続するだけである。それを遺した先祖の努力に思いをはせることもなく当然の権利として受け取るだけである。
今日われわれはちょっとまえまでは考えられないような便利な快適な生活環境にあり、それを当然のごとく受け止め利用している。
だがわれわれはこの便利な生活空間の仕組み、メカニズムを殆んど知らない。
ましてこのような仕組みの背後にあるごく少数の優秀な人の努力に思いはせることがない。
あたかも良家の御曹子が当然のごとく遺産を相続し先祖の苦悩に思いはせないように。
19世紀は技術の進歩などによりそれ以前と比し快適な豊かな社会となった。
19世紀の大衆は文明の便益を相続した。技術の進歩による快適、贅沢、安全性など豊かな生活空間を相続した。
大衆は文明の成果を受け取るだけである。それを創りだしたわけではない。創造したのは少数者である。
良家の御曹子が遺産を相続するように19世紀の大衆は文明の便益という遺産を相続した。
自ら創造せずただ与えられただけの快適な環境におかれた大衆は自らを錯覚する。それらは少数者の成果であるがそれに敬意を表することもしない。
文明の便益を当然のごとく受け取り他者へ配慮することもない。それどころか慢心した大衆は優秀な少数者を自分たちと異なるという理由でこれを排除する。大衆の暴力であり大衆の反逆である。
オルテガはその病根の深さをこう表現している。
「こうしたタイプの人間が、便益のみで危険はまったく目につかないような、あまりにも立派に組織された世界に生れ落ちた場合、別の態度をとれといっても無理なのだ。
環境が彼を甘やかしてしまうのである。なぜならば、環境は『文明』---つまり、一つの家庭---だからである。
そして『良家の御曹子』は、自分の気儘な性質を捨て、自分よりも優れた外部の審判に耳を傾ける必要性を感じないし、自分自身の運命の非情な根底に自ら触れる義務などなおさらのことに感じもしないからである。」(前掲書)
衆議院選挙は与党の勝利で終わった。希望の党の小池百合子代表は出張先のパリで「『非常に厳しい結果だ』『自分に慢心があった』と顔をこわばらせた」(パリ=大泉晋之助) 彼女は真摯に反省しているようだ。
だが「慢心」とは何のことか、いつの時代においても大衆がこれを理解することはないであろう。
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