自殺は異常な個人的事情であるにもかかわらず社会全体で見れば一定の比率で発生する正常な現象である。
これに着目したデュルケームは自殺を統計によって可視化し分析した。
その結果、結束力が強くベクトルが一致する社会では自殺率が低く、反対に結束力が弱く個人の帰属意識が薄い社会では自殺率が高い。
平穏な日常の生活を破壊する戦争時には自殺率は上がるだろうと思われているがむしろ自殺率は下がっている。社会のベクトルが合っているからである。
個人を拘束する規制が緩み個人の欲望に歯止めがかからない社会は自殺者が高い。生きていくのに厳しい不況期には自殺率は上がるだろう見られているが、逆に自殺率が上がるのは不況期ではなく好況期である。好況期には欲望が際限もなく膨らみやすいからである。
これらの研究結果からデュルケームは無連帯社会に起因する無秩序・アノミーこそ人を自殺に追い込む正体であることを発見した。
デュルケームは自殺を自己本位的、集団本位的およびアノミー的に分類した。
このうち集団本位的自殺は、集団の中に個人が拘束され義務的にあるいは随意的に追い込まれる自殺である。
これが支配的な社会はいつでも生命を放棄する用意がある反面他の生命も尊重しない。
特殊な軍隊または個人の地位が未発達な社会でみられる。太平洋戦争終戦末期の神風特攻隊や殉教・殉死など。
個人主義が発達した現代社会では次第に少なくなっている。
現代社会で問題となるのは自己本位的自殺とアノミー的自殺である。
自己本位的自殺は個人化がすすみ社会との連帯が断ち切られたときに生じやすい自殺であり、アノミー的自殺は、欲求を規制する社会の権威や規範が弱体化して無秩序状態となったとき起きやすい自殺である。
デュルケームは自己本位的自殺とアノミー的自殺に分けて論じているがこの両者はともに社会との連帯が断ち切られ無連帯・アノミー状態になった時に発生するという意味では同じである。
アノミーがどうして自殺につながるのか?人は優れて社会的存在である。
「全世界が一つの舞台、そこでは男女を問わぬ、人間はすべて役者に過ぎない」(シェイクスピア 福田恒存訳『お気に召すまま』)
誰もいない舞台で一人で演技したいという役者はいない。人間にとって一番大切なものは連帯である。これを断たれれば正常な人間も狂者になる。
デュルケームは生活水準が急激に上がっても急激に下がっても同じように自殺率が高くなることを発見した。
生活水準の急落は誰しも納得できる。が生活水準の急上昇による自殺率の激増は画期的な発見である。これを後述の急性アノミーと区別して単純アノミーという。
なぜか、生活水準の急上昇によりそれまで付き合っていた人との連帯が断たれる。一方生活水準の急上昇によりそれに見合う社会の人たちと付き合おうとしても成り上がりものとして見下され連帯をつくれない。
自分の居場所を見出せず途方にくれてしまう。高額な宝くじ当選者などが陥りやすい陥穽である。
デュルケーム後に発見されたものに急性アノミーがある。絶対的な権威が崩壊したとき、また信じきっていた人や愛していた人に裏切られたとき、このようなとき正常な人が狂者以上に狂者になる。
太平洋戦争終戦後、日本中の権威という権威がズタズタに崩れ急性アノミーになったが、その惨状はいまさら説明不要。
信じきった人、愛した人に対する絶望から急性アノミーになる心理をシェイクスピアは『ハムレット』で描写している。
父王の急死とあまりにも早い母と父の弟との再婚という衝撃でハムレットは自殺の誘惑に駆られる。
「ああ、この穢らわしい体、どろどろに溶 けて露になってしまえばいいのに。せめて、自 殺を大罪とする神の掟さえなければ。
ああ、ど うしたらいいのだ、この世の営みいっさいが、 つくづく厭になった。わずらわしい、味気ない、 すべてかいなしだ!ええい、どうともなれ。」「ああ、この穢らわしい体、どろどろに溶 けて露になってしまえばいいのに。せめて、自 殺を大罪とする神の掟さえなければ。
(シェイクスピア 福田恒存訳 『ハムレット』)
がん細胞が人の体を蝕むようにアノミーは人の精神を蝕んでしまう。
連帯喪失はもともと社会の病気であるが、社会的存在である個人はこの病気から逃れることはできない。
デュルケームが自殺の研究を通じて発見したアノミーは一大発見であり社会学への貢献は計り知れない。
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