まずフリードマンの魅力として挙げられるのが、彼の学説は自由を求める精神が基盤となっていることである。
アメリカはイングランドから信仰の弾圧を逃れてきたピューリタンによって誕生した。
圧制・弾圧はアメリカ人にとって消し去ることのできない幼児体験となっている。彼の学説がアメリカ人の心の琴線に触れるであろうことは容易に頷ける。
つぎにフリードマンの主張が具体的に分かり易くかつ時代に適合していたことが挙げられる。
1970年代アメリカはベトナム戦争で疲弊し財政も悪化していた。
この時フリードマンはニクソン政権に徴兵制廃止と為替の自由化を進言した。彼はまた弱者にも配慮し、負の所得税を提起している。
折りしも冷戦下で社会主義よりも自由主義が優るという彼の主張は多くのアメリカ人に受け入れられたであろうこともまた容易に頷ける。
最後に挙げられるのが経済学者としてフリードマン独特の実証的な経済理論の方法であろう。
彼は、若い時、一時自分の進路について数学者になるか経済学者になるか迷ったと言っている。このためか社会科学である経済学とその他の科学の違いをはっきりと認識し、独自の実証的経済理論を展開した。
経済学の方法論についてフリードマンはつぎのようにのべている
「実証的な科学としての経済学は、条件の変化がもたらす結果を予測するのにも用いられるような、経済現象に関する、試論的に容認される、一般化の体系である。
この一般化の体系の拡大、それらの妥当性に対するわれわれの信頼の強化、ならびに、それらが産み出す予測の精度の改善における進歩は、あらゆる知識の探求を阻む人間能力の限界によって妨げられるだけでなく、社会科学一般、とりわけ経済学にとって --- けっして固有のものとはいわないまでも --- とくに重要な障害によっても妨げられるのである。
経済学の主題に慣れてしまうと、それに対する特殊な知識を侮るようになる。
その主題が日常生活や公共政策の主要な問題にとって、重要であるために、客観性が阻害されたり、科学的分析と規範的判断の混同が助長されたりする。
管理実験よりむしろ管理されない経験に頼らざるをえないため、試論的な仮説の容認を正当化するのに非常に効果的で、明確な証拠を産み出すことがむずかしい。
管理されない経験に頼るからといって、仮説はその仮説の含意もしくは予測と観察可能な現象との一致によってのみテストされることができるという方法論上の基本的原理が影響を受けるわけではない。
しかし、そのために仮説をテストするという仕事はいっそうむずかしくなり、それにかかわる方法論上の諸原理に関する混同が入り込む余地はいっそう大きくなる。
社会科学者は、その他の科学者たち以上に、かれらの方法論について気を配る必要がある。」
(ミルトン・フリードマン著佐藤隆三・長谷川啓之訳富士書房『実証的経済学の方法と展開』)
一言でいえば、社会科学である経済学の ”経済理論は、 『仮説』 をたてても、これを 『テスト』 して実証することは困難である。” ということであろう。
それならばどうしたらいいのか? フリードマンの処方箋はこうだ
「そのような理論は、その”仮定”を”現実”と直接に比べてテストするということはできない。
事実、それがなされうるような有意味な方法はない。完全な”現実主義”を達成することは明らかにできないから、したがって、ある理論が、”じゅうぶんに”現実的かどうかという問題は、当面の目的にとってじゅうぶんに良好な予測をその理論がもたらすかどうか、あるいは択一的な理論による予測以上にすぐれた予測をそれがもたらすかどうかを確かめて、はじめて解決されるのである。
けれども、理論は、それがもたらす予測の正確さと独立に、その理論の仮定が現実的であるかどうかによってテストできるのだという信念がはびこっており、しかもそれが経済理論を非現実的であると非難する、多年にわたる多くの批判の源泉ともなっている。
そのような批判は大体において見当ちがいであり、したがって、その批判に刺激されて試みられた経済理論の改良の企ては、ほとんど失敗してきた。
経済理論にたいするきわめて多くの批判が見当ちがいだからといって、現在の経済理論が厚い信頼を受けるに値するということにはならないのはいうまでもない。
それらの批判は的を外しているかもしれないが、批判に値する的はあるかもしれない。もちろん、取るにたらない意味でなら、的は明らかにある。
いかなる理論も試論的であることは避けがたく、しかも知識の進歩とともに変化を受けやすい。
このようなありきたりの文句を超えて進むためには、”現在の経済理論”の内容をもっと明確に把握し、そして、その異なった部分を区別する必要がある。
経済理論のある部分は他の部分より明らかにいっそうの信頼に値するのである。
実証的な経済学の現状の包括的評価、実証的経済学の妥当性に関連する証拠の要約およびそれぞれの部分が受けるに値する相対的な信頼の評価を行なうことは、いやしくもそれが可能だとしても、明らかに一冊の専門書もしくは一連の専門書によって始めてなしうる仕事であり、方法論に関する一編の短い論文でなしうることではない。」(前掲書)
少しく敷衍してみよう。
仮説を完全に実証することなどできない以上、それを求めつづけても仕方がないしそんなことをしても無意味だ。
仮説が当面の目的にとって現実的であるかどうかが問われなければならない。
いいかえればその仮説の予測がその他の仮説の予測より優れているかどうかが問われるべきである。
いかなる経済理論も所詮は仮説の域を脱することはできないし、しかも知識の進歩とともに変化を受けやすい。 だがこの仮説の評価はそう簡単にはできない。一編の短い論文などでできない。腰をすえて専門的に研究して始めてできるような仕事だ。
フリードマンの説に従えば、われわれは経済学の仮説は、専門的に研究しなければ評価不可ということになる。
この突き放したような方法論はケインジアンはじめ当時の経済学者から批判されたといわれている。
だが当時経済学会で圧倒的権威であったケインズ経済理論に翳りがみえはじめた時期でもあり、フリードマンの説は新鮮な驚きをもって迎えられたという。
このような魅力によりフリードマンは学問的にも政策的にもまずアメリカでその後世界中に大きな影響を与えた。
その影響とは具体的にどんなものか。またわが国にどんな影響をあたえたか。
フリードマンが述べているように経済理論は試論的であり専門的な研究を経ずして評価できないかもしれない。だが、時を経れば試論が完全に実証されなくともその帰趨は次第に明らかになり、評価もまた可能となろう。
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