2014年4月21日月曜日

社会調査 2

 様々なチャンネルから入ってくる情報に対して、選別・識別することをしなかったらどうなるか。
 それらの情報についてすべて正しいと受け入れたとしたらどうなるか。
 見解が真逆の情報もあるだろうし戸惑うばかりで、我々は判断停止状態に陥るだろう。
 古代ギリシャ アテネの陶片追放は独裁者の出現を防ぐのが当初の目的ではあったものの、自ら思考し判断することを放棄し専ら不人気投票が幅をきかせ衆愚政治へと堕落していった。
 このことは、遠い昔のギリシャのこととも思えない。
 現代のわが国の選挙は、人気投票という点で、古代ギリシャ の陶片追放という不人気投票といかほどの違いがあるのか。

 「情報機器やシステムの進んだ現代では、他人より、より多くの情報を集めることを競っても意味がない。
 情報など、集めようと思えばいくらでも集められるからである。  むしろ今後、必要となるのは、あふれるデータの中から真に必要なものをかぎ分ける能力、いわゆる【セレンディピティ(serendipity)】と呼ばれる能力であろう。
 このセレンディピティを訓練するにあたっては、まずゴミを仕分けることが効果的である。つまりデータをどう【捨てる】かである。 データや社会調査の情報はだいたい三つに分類される。
 役に立つ有益なものと、目下のところは役に立たないが将来的に必要になりそうなもの、そして【ゴミ】の三つである。
 数量的にはこの最後の【ゴミ】が圧倒的に多いが、この【ゴミ】をすぐに捨てることのできる人は、そうでない人より、かなり有利なポジションを占めることになるだろう。
 この能力がリサーチ・リテラシーのある人とない人の差となる。  もう一度、繰り返すが、今後は情報を得る能力よりも捨てる能力の方が、はるかに重要な素養となってくる。」(文春新書 谷岡一郎著『社会調査のウソ』)

 つい最近まで、豊富な情報、豊富な知識は、それだけで社会的に尊敬を集め、有利と思われてきた。
 学校の入試など、かなりの部分が知識の有無を問う試験でもあった。
 谷岡氏の言うように、情報を【捨てる】能力が素養の判断基準とすれば、判断基準の【コペルニクス的転換】である。
 なぜこのように捨てなければならない情報が溢れているのだろうか。
 有力な理由の一つとして社会科学特有の社会科学的事実がある。社会科学は自然科学と異なり様々な要因が複雑に絡まる複雑系の権化のような科学である。
 それゆえ検証実験が不可能ではないにしても自然科学とは比較にならないほど困難である。
 今話題の渦中にあるSTAP細胞でさえ追試とか反証可能性が問題となっているが、これが社会科学ともなれば、時間、空間、民族、文化等々の要因が入り検証は困難を極める。
 このような社会科学の曖昧さゆえに、これを利用・悪用する者が現れ、結果として社会にゴミが溢れかえる。
 ゴミのジャングルから抜け出し正しい判断を行うには、谷川氏が言うようにまずゴミの情報を捨てることは、必要条件ではある。  が、これだけでは十分とはいえない。情報を咀嚼し自分のものとしててはじめて正しい知識たり得る。
 が、情報を咀嚼し自分のものとするには、それなりの心構えと努力が求められる。
 情報を単に受けるだけの習慣から抜け出さなければならない。
自らの脚で立ち、情報を発信するまでにいたらないと真の知識とはいえないかもしれない。
 なぜなら【人は教えることによって最もよく学ぶ】(セネカ)から。

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