2014年1月27日月曜日

ギャンブル考 2

 人はなぜ賭けるのか?
ギャンブルの目的は利益を目指すこと。利益を目指さないギャンブラーなどいない。が、冷静に考えるとギャンブルで利益を上げることなど無理であることがすぐわかる。
 わが国の公営ギャンブルである、競輪、競馬は控除率が25%、宝くじにいたっては50%強であり、賭けた瞬間からこのハンデを背負わされている。確率論的に長くやればやるほど負けることになる。
 わが国は法によって公営以外のギャンブルは禁止されている  が、パチンコは実体がギャンブルであることは周知の事実である。パチンコは貸玉料金と換金料金のレートの差が、実質控除の大半をしめているが、公営ギャンブルと異なり実質の控除率は3%からせいぜい7%ともいわれ、25%よりかなり低い。
 それでもこれらの控除率を乗り越えて利益を上げるのは容易でない。にもかかわらず人々は競馬場へ通い、パチンコにいそしみ、宝くじを買う。賭けることをやめないし、ギャンブルにまつわる事件もあとを絶たない。
 その理由は何だろう。
 その理由の一つが、前稿の大王製紙の元社長である井高氏が述懐しているように、アドレナリンとドーパミンの噴出感 スリルと興奮であろう。
 ものごとに熱中すればストレスが解消されることは科学的にも確認されている。経験的にも、神経の痛みである歯痛など興味あるものに極度に熱中すればその瞬間だけ痛みを忘れるができる。
 このことは何も歯痛に限らず、ひろく生活一般の様々な悩み、困難、苦痛にもいえる。
 人は合理的な生き方ばかりを追求しているわけではない。そればかりでは窮屈である。窮屈になれば目指す目的にたいしても非効率となる。従って、気分転換なり遊びが必要である。
 オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガは、彼の著書『中世の秋』で、貴族文化を分析し、人間の本質を遊びに見出し、ホモ・ルーデンス(遊戯人)と名づけた。
 このように人がギャンブルに打ち興じるのは、本当のところは利益を目指すというより、スリル、興奮、気分転換、遊びなどが主な動機ではないか。中にはギャンブルをする人は、心の奥底でギャンブルに自らの破滅を進んで求めているという説さえある。
 それはともかくギャンブルで蔵を建てた話など寡聞にして知らない。
 わが国と異なり、歴史的に貴族階級が存在した西欧ではギャンブルは社交界の遊びであった。ロンドンのアスコット競馬場やパリのロンシャン競馬場で正装した女性が競馬に興じる映像を目にすることがある。
 日本の競馬場も最近は若い男女が訪れるようになり華やいだ雰囲気のようだが、近年まで競馬場も鉄火場で、おおよそ社交場とは程遠い雰囲気であった。
 西欧のカジノの雰囲気はどのようなものであるか。自らも賭博狂であったロシアの文豪の小説にその様相が書かれている。
 貴族階級が存在しなかった日本人にはとても理解し難いが、これもまた、人々がギャンブルをする理由の一つである。

 「ここでは、どういう勝負が悪趣味とよばれ、どういう勝負ならまともな人間に認められるかが、はっきり区別されているのである。 勝負にも二通りあって、一つは紳士の勝負であり、もう一つは欲得ずくの成上がり者の勝負、ありとあらゆる低俗人種の勝負である。
 その区別たるや、実は、きわめて下劣なものだ!たとえば、紳士は五ルイ・ドル、十ルイ・ドル賭けても差支えないし、それ以上賭けることはめったにないが、それでも、もし非常に裕福ならば千フラン賭けたってかまわない、だが、それはもっぱら遊びのため、ひたすら楽しみのためであって、本来、勝ち負けの経過を眺めるためにすぎないのだ。
 しかし、自分の儲けに関心いだくことなぞ、決してあってはならない。勝負に勝ったら、たとえば、笑い声をあげるもよし、周囲のだれかに感想を述べるもよし、あるいはさらに、二度、三度と賭け金を倍にすることさえ差支えないのだが、それはもっぱら好奇心からであり、チャンスの観察のため、確率の計算のためであって、儲けようという成上がり根性からではない。
 一口に言えば、ルーレットにせよ、三十・四十にせよ、あらゆるそうした賭博台を、紳士たる者は、もっぱら自分の楽しみのために設けられた遊びとして以外に見てはならないのである。
 胴元を支える基盤でもあれば仕組みでもある金銭欲やトリックなぞ、想像することさえあってはならない。」
(新潮文庫 原卓也訳ドストエフスキー著『賭博者』)

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