外国を理解するのは容易ではない。人種、文化的に比較的日本人に近いと思われる中韓両国でさえ最近の言動もなんとも理解できないことが多い。
なかでも宗教にまつわることについては特にそうである。
聖書に書かれていることをそのまま信じるファンダメンタリスト、厳格な六信五行を行うムスリムなどに至っては、もはや我々の理解を超える。
外国を理解するには、まずその国の宗教を理解しなければ一歩も先に踏み出せないと言っていいかもしれない。さもなくば表面だけの理解に止まる。
外国の宗教を理解するにあたっては、まず日本の宗教について正しく理解することからはじめなければならない。
NHK放送文化研究所も参加している国際比較調査グループが2009年5月に実施した日本人の宗教についての調査では、宗教を信じていない人が多く、また宗教の中では仏教に親しみを持つ人が多いことが調査の結果わかった。
宗教を信じている39%、信じていない49%、
親しみを感じる宗教では、
仏教65%、神道21%、キリスト教13%
芥川龍之介の小説「神神の微笑」で、奇妙な老人が宣教師オルガンティーノに対し
「あなたは天主教を日本に広めようとしていますね。それも悪いことでもないかもしれません。しかしでうすもこの国に来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」と語らせている。
また「日本にいくら宗教を根付かせようとしても無理なのは、日本が古来から「八百万の神」を崇める、神道などに見られる独特の宗教観を持つからで、釈迦もイエス・キリストも日本にくれば神々の一人という扱いになる。
日本人が海外の思想に変化を加えて自分のものにする様子を「造りかへる力」とも。
この芥川龍之介の小説の考えをより具体的に表現したのが、山本七平が提唱した「日本教」という概念である。
この山本七平の提唱を、社会科学的に整備したのが今や絶版となった、山本七平氏と小室直樹博士による対談形式の共著 「日本教の社会学」(講談社)である。
日本人の宗教について、芥川龍之介が小説で示唆したことが、この本で、社会科学的に解明され方法論的に体系づけられたといっていい。
その骨子は
・日本教は仏教の経典、キリスト教の聖書やイスラム教のコーランなどの体系化されたものはなく、戒律なき宗教である。あるいは入ってきたあとそれらの戒律は骨抜きにされる。
・日本教には、血縁、地縁、階級、共同体から離れた神との契約という概念は一切ない。
・日本に入ってくる宗教は、仏教、キリスト教、儒教など全て入ってきた途端に日本教の一派になる。
日本教徒仏教派、日本教徒キリスト派、日本教徒儒教派となる。
一つの例として、江戸幕府によるキリシタン禁令下で信者発見のため使用された踏み絵。
真のクリスチャンであれば、唯一絶対の神との契約が全てであり、踏み絵は単なる被造物にすぎない。日本人クリスチャンは、この被造物に感情移入し物神化させ逆にそれに支配されたが、これなど典型的な日本人的発想。キリスト教を真に理解していたとは言い難い。
・日本教は、神や仏は人間のために存在する。表面的には神仏を尊重するが、実質的には神仏の都合より人間の都合を優先する。
・日本教にはドグマがない。従って体系化された行動規範がない。が、「空気」がドグマの役割を果たし、これが日本人を拘束している。
前述のように、日本人は無宗教だと自覚している人が半数を占める。が、「空気」は今も昔も日本人を呪縛している。その意味で殆どの日本人は、「空気」をドグマとする日本教徒といえる。
人が行動するに、無目的に行動する筈がない。宗教活動に於いても例外では有り得ない。
日本教には体系化された行動規範がなくドグマもない。が、それと同等の「空気」という実質的なドグマがあり、これに拘束されている。
このような宗教感を持つ日本人が仏教、キリスト教、イスラム教、儒教を理解することは容易ではない、逆もまた然り。
が、この日本教の立ち位置を認識し、充分に腑に落としこんでおけば、難解とはいえ外国の宗教、行動様式を理解する一助となろう。
順次、代表的な宗教につき考えてみたい。
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