将棋の5人のプロ棋士と5本の将棋ソフトが戦う第2回電王戦が今年5月行われ将棋ソフトの3勝1敗1引き分けの結果に終わった。
公式戦でプロ棋士が初めて将棋ソフトに負けた戦いでもあった。
プロ棋士といえば将棋ファンにとってエリート中のエリート、天才集団である。
この5人の天才があえなく団体戦で将棋ソフトに惨敗した。
将棋ファンにしてみれば天才が機械に負け将棋の神話がもろくも崩壊した瞬間でもあった。
一人の棋士は現時点で未だ備えが十分とはいえないコンピュータの入玉対策の虚をついて引き分けに持ち込んだが、対局後の感想で団体戦だから途中投了など考えられなかったと感極まって泣いた。
チームワークという日本人のDNAが機械相手にも発揮されようとは驚きであるが、この棋士の涙は将棋とコンピュータの転機の象徴的なものとなるだろう。
チェスの場合は、世界チャンピオンがとっくにコンピュータに負けており、今やコンピュータは人間同士の戦いを評価する側になっている。
人間が指した手が、コンピュータがはじきだした最善手に合致しているかどうかが興味の対象となっている。
将棋がいづれチェスの途を辿ることになるだろう。このことは囲碁にも当て嵌まる。ただ、囲碁はゲームの性質上、時期的にかなり先になるといわれている。
プロ棋士が当たり前にコンピュータに負ける時代になったら将棋の魅力は失せるのだろうか。
そうなるとも思えない。第一ゲームの性質が異なる。よく人間と自動車の競争にたとえられる。
100m競走は今でもオリンピックの花形だ。そろばんとコンピュータの関係も同じだ。そろばんは脳を鍛えるとしていまだに根強い人気がある。
そうはいっても、人間とコンピュータが戦えば、どうしても人間のほうを応援したくなる。
人間に限りない可能性を追求してもらいたいからであり、それにまた、人々は自らを擬してもいるのだろう。
が、コンピュータも人間の創造物であり、コンピュータソフトも人間の苦心の作である。
こちらを全く応援しないというのも片手落ちを否めない。
人間とコンピュータの共存共栄などと格好いいことをいっても所詮は戦いだ、冷静に受け止めるしかない。
現に、将棋ソフトの作者は、人間とコンピュータの戦いでは、目的とするところは、将棋ソフトの性能向上であり、人間に勝つことではないといっている。
時機がくればコンピュータが人間を凌駕することは必然と受け止め、彼らの狙いは、むしろ他の将棋ソフトとの戦いに勝つことを目標としている。
この将棋ソフトの作者の考えは、ひろく人間とコンピュータの係わりを考える上でヒントになろう。
いずれ名人クラスでもコンピュータに太刀打ちできない時がこよう。そうなったとしても将棋ファンのプロ棋士に対する眼差しは変わることはないし、将棋の面白さをいささかも減ずることはないだろう。
かってイギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーはいった
「12~13歳までにその民族の神話を学ばなかった民族は例外なく100年後滅んでいる」 と。
コンピュータの出現によって日本の神話が滅ぶことなどなかった。
天才棋士に対する神話も例外ではなかろう。
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