あるスローガンを掲げ、それに向かってまっしぐらに駆けるとなると余程の環境が整はないとうまくいかない。
ところが政府の産業力競争会議の議事ではメンバーの選定によるところ大と思われるが”規制改革なくして成長戦略なし” ”規制改革は成長戦略の一丁目一番地だ”などと自説を展開して止まない人がいる。
アベノミクスの第一の矢 大胆な金融政策は成功裡に滑り出したし、第二の矢 機動的な財政政策も大いに期待できる。
が、第三の矢 民間投資を喚起する成長戦略には危惧の念を抱く。下手をすると、この第三の矢の矛先は国民自身に向かってくるかもしれない。
自由貿易とか規制緩和とかに反対すると、抵抗勢力とか古い体質とか言はれかねない風潮もしくは空気がこの日本にはある。
アベノミクスの三本の矢は日本経済を取り戻すためのものであるから、この目的に適わなければ成案から排除すべきである。
規制緩和には功罪があり、功ばかり目を向け、罪に目を瞑ることは片手落ちだ。
成功例としてすぐ思いつくのが電気通信事業である。これによりインターネットの通信料が劇的に安くなり普及が進んだ。
失敗例としては、しばしばとりあげられるが、タクシーの規制緩和である。
この緩和でタクシー業界が過当競争となり、瞬く間に阿鼻叫喚の業界と化した。
前者では規制緩和が環境と合致し、後者は環境が整っていなかったことが原因である。
そこで規制緩和するには規制緩和できる条件とは何かを俎上にのせて検討する。これがまっ先にやらなければならない作業である。
規制するには、それなりの条件があった筈であり、この条件が解かれれば需給バランスを考慮し規制緩和すべきだろう。
この作業抜きでいきなり、成長には規制緩和が一丁目一番だなとというのは、カルト教の教祖が俺に黙ってついてこいというようなものだ。
規制緩和の条件または環境とはなにか。規制の原因は、市場競争に任せたままでは、独占による供給抑制と価格吊り上げ、安全性、公共性が損なわれるなどのデメリットが生ずることを排除することである。
したがって規制緩和は、これらの要因がなくなったときに初めて有効となる。
規制緩和の判断の基準は、需要が供給を上回っている状態、公共性、安全性が担保される条件などでなければならない。
これらの条件を無視した議論は、デフレ下でデフレを促進し、成長戦略にとって、むしろ有害でさえある。
ところが、いつもながら、産業力競争会議の有力メンバー竹中慶大教授の説得力には舌を巻く。
「ノーベル経済学者のクルーグマンとも議論したが、需要と供給は片方の問題ではない、需要は供給に影響されるし、供給は需要に影響される。
したがって両方上がっていくようにしなければいけない。
供給を上回って需要ば増えることはできない。したがって成長の上限は供給できまる。いままで成長の上限が抑えられていた。
私にしても将来自分の所得が増えないとおもうからお金を使う気になれない。
将来所得が増えないと思うのは潜在成長率が低いとおもうからである。
供給が増えれば、ほっといても需要が増えるとはいはない。
しかし供給が頭打ちになっている限り、需要は増えない。一時的に政府が需要を増やすことはできる。しかし継続的に需要を増やすためには、供給、稼ぐ力を増やすしかない。
銀行の貸し出しが増えないのは、需要がないことと、貸し渋っていることが原因である。
新しく事業を興そうという人に聞くと、一杯やりたいことはあるが規制があってやれないという返事が必ず返ってくる。
これが需要が伸びない理由の一つである。
(H24年自民党創生「日本」7月総会)
同教授の説に従えば、この20年間続いたデフレの原因は規制があって思うように供給が伸びなかったからということになる。
ご本人はわが意を得たりの自説かもしれない。
白を黒といい含める技と言う意味では妙に得心が行くが、成長戦略が支離滅裂になりはしないかという懸念ばかりが残る。
例えは適切でないかもしれないが、古今東西、戦争が勃発すれば、当事国又は周辺国は例外なく需要が急増しデフレから脱却している。
太平洋戦争の米国、朝鮮特需の日本など、需要牽引によるデフレ脱却の歴然たる証拠ではないか。
アベノミクス第三の矢はどこに向かっていくのかいよいよ目が離せなくなった。
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