2013年2月18日月曜日

英語公用語化について

 ひと頃、ユニクロを展開するファーストリテイリングや楽天などグローバル化を目指す日本の企業が社内の公用語を英語にしたことについての功罪が論じられた。
 閉塞感のある昨今、これら経営者の野心的なチャレンジに敬意を表する人も多い。
 英語公用語化の功罪のうち、まず功は、ビジネスのグローバル化への対応である。
 コンピュータやインターネット文明は英語とともに入ってきた。
ビジネスのグローバル社会では殆ど英語が公用語となっている。 また、英語を公用語化することにより、海外の優秀な人材を取り込めることも大きなメリットとして挙げられ、これらが主な論調である。
 次に罪のほうは、当然、功の裏返しとなるが、このほか注目すべきは、塩野七生氏の、想像力についての見解がある。
 氏によれば、人間の能力の中でもあらゆる仕事にとって最も重要と思う想像力について外国語と母国語による場合を比較して、 「想像力を自由に羽ばたかせたいと思えば、母国語にまさるものはない。なぜならば外国語は、所詮よそいきの言葉で、それゆえに人間性の自然に、多少なりとも反するものだからである。」
とのべている。
 流石、歴史作家らしい鋭い洞察である。
 よそゆきの言葉といえば、同じ日本語の比較でも、東北の人にとっては、ただ寒いというより、”しばれる” といったほうがより実感があるに違いない。
 九州出身者にとっては、びっくりしたというよりも、”たまがった”というほうがより心に響く。
 方言からみれば標準語はよそゆきの言葉である。まして、日本語と外国語は、よそゆきの度合いでは、方言と標準語の比ではない。
 ただ、たくましい想像力を要求される歴史作家とは異なり、ビジネスの社会で要求される想像力はいかほどか。
 あくまでも比較の問題である。多少なりとも人間性の自然に反しても、英語を社内公用語化するビジネスのメリットが大きければ正当化されるだろう。
 塩野氏の指摘は、一企業の問題であれば、あるいは等閑に付されるかもしれない。が、これが国家のレベルとなると事情は一変する。
 言語の問題については、過去に幾度となく、蒸し返されてきた。初代文部大臣 森有礼は、英語の公用語化を提案し、郵便制度の創設者 前島密は漢字を全廃し、ひらがなを国字とすることを主張した。
 敗戦直後はこの傾向が顕著で、作家 志賀直哉は 日本語を廃止して、世界中で一番美しい言語であるフランス語を採用せよと提案した。
 讀賣報知(現讀賣新聞)は、漢字を廃止せよとの社説を掲載した。混乱/動乱期には、原点に返って言語を見直す傾向があるようだ。
 自信喪失すると人々は、ともすると自虐史観に陥りやすい。
母国語改革の主張に共通するのは、功利性、機能性などが主流であり、先のファーストリテイリングや楽天の主張と似通っている。
 一国の文化の基礎となっている母国語を、功利性、機能性ゆえに取り替えるなどという発想は、一見合理的に見えるがこれほど非合理なものはない。
 塩野氏のいう、自由に想像力を羽ばたかせるもととなる母国語を、取り替えるということは、思考の基盤をなくすことに他ならない。そんな国民に未来はない。
 そもそも、何をもって、日本語が英語より功利性、機能性に劣るというのか、はなはだ疑問である。百歩譲って、もしそうだとして現実に母国語が取り替えられる事態に至れば、自国民が混乱するだけでなく、他国から限りない軽蔑の眼差しをむけられるだろう。 自信喪失し、アイデンティティをなくし、矜持をなくした国民を誰が尊敬するか。
 明治の思想家 岡倉天心はアメリカの社交界で人気を博し、尊敬された。彼は、アメリカ人より英語がうまく話し、アメリカ人より西洋の歴史に詳しかった。
 彼は、どんな席でも、例外なく羽織・袴で通したといはれている。 相手の懐深く入り込んで、なおかつ独自性を発揮する。浅薄に英語を公用語化せよなどと主張する輩とはおよそ縁遠い存在であった。

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