空気による決定は、科学的、合理的判断によるものではないため、その結果は危険を孕むものであるため、できることなら空気の呪縛から逃れ、科学的、合理的に議論をすすめ、結論を得たいものである。
空気の呪縛をなくする方法、それは水をさすことであると、山本七平は、空気の研究でのべている。
事実を事実としていうことにより、空気の呪縛を解くことができる。事実を事実としていうことは、我々の社会、特に、社会学者が定義する”共同体”の中では、勇気のいることであり、時として、情況を加味しない裏切り行為となる。
また、よしんば、うまく空気による呪縛を解いたとしても、当該空気とは別の違った空気が発生する。
猪瀬直樹氏は、彼の著書、空気と戦争で、太平洋戦争開戦の是非につき、優秀な官民の若手メンバーからなる、模擬内閣が、検討した戦争シミュレーションでは、緒戦は優勢なるも次第に劣勢になり、最後はソ連の参戦を招く、という事実を先取りしたかのような検討結果を報告した。
シミュレーションとはいえ数字に裏打ちされたものであったが、上層部は、これを机上の空論として却下した。昭和天皇は、一旦開戦と決まったが、なんとか和平の途はないものかと、東條英樹に意をつたえられ、東條は開戦回避に動いたものの、当時の空気に押し切れれてしまった、というようなことをのべている。
事実、あるいは科学的、合理的推論も、空気という圧力にはなす術がない、ということは、空気は我々のなかに、なにものにもまして、最上位に位置する規範となっていると考えなければ説明のしようがない。
規範は、人は判断するうえでの、すべての基礎となるものであり、規範がない社会は想像できない。
社会学者は、日本社会における空気は、キリスト教、あるいはイスラム教の教義(ドグマ)にあたると指摘する。
もしそうであるならば、空気の支配下にある我々は、空気というものを教義とする宗教を信じる民ということになる。
山本流にいえば、日本教徒である。事実、社会科学者、小室直樹博士は、日本におけるすべての宗教は、日本に入った途端に異質なものに変わる。
たとえば、我々は、キリシタン弾圧にたいし、命にかけて踏み絵を踏まなかった信者を真のキリスト教徒と考えるかもしれないが、小室博士は、そうではないという。
真のクリスチャンであれば、単なる造作物でしかない踏み絵など、蹴飛ばすことができた筈である、と。
このことは、山本七平が空気の研究でも指摘している。日本人は、ものに感情移入し、そのものの背後に崇拝あるいは悲惨となるものを臨在させ、その臨在感的把握を絶対化することによって、そのものに、逆に支配される。
このような、物神化は、西洋社会にはなく、日本特有のものである。
彼らの指摘するように、われわれ日本人は、空気というものを教義にいただく宗教を信じる民ということであれば、常に非科学的、非合理的な意思決定に動かされる民ということになる。
それはまた宗教であるから、表面上はともかく、改宗など簡単にできるわけはない。このようなことになると、なにか暗澹たる気分になる。
日本人は宗教に寛容であり、暗に、キリスト教とかイスラム教など一神教は非寛容であるなどと、半ば優越的に思っていたとしたら、その感情など、ズタズタに引き裂かれてしまうだろう。
日本は宗教について寛容などでなく、世界の他とちがって異質であると認識したほうがよさそうである。
どのように異質なのか、空気による呪縛を基点として調べてみたい。
本日はクリスマスイブ、いつも通る散歩道のケーキ屋さんに、いつになく行列ができていた。
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