2018年5月28日月曜日

健全財政の罠 5

 「たいていの人は小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい」 アドルフ・ヒットラーは政権奪取前に自著『わが闘争』でこう述べている。
 このヒットラーの言葉が今の日本で現実に起きている。こういっても俄かには信じ難いだろうが残念ながらこれは事実である。しかもその嘘が国家の財政についてであるから事は深刻である。
 例えば
1 日本の借金は厖大で17年末1085兆円(2018.2.9財務省)で赤ん坊を含めて一人当たり858万円となる。
2 財政を立て直すには増税するしかない。とりわけ消費税は現在8%であるが諸外国に比し低すぎる。将来的にはこれを20%にまで上げなければ財政再建などとてもできない。
3 わが国の財政は危機的でこのままでは破綻する。

 これらのことおよびこの類のことが財務省を発信源として広く深く浸透している。それは一般国民だけでなく政界、財界、学界、言論界など国民をリードする立場にある階層にまで浸透している。腕利きのマジシャンの催眠術にでもかかったような浸透ぶりである。

 実態はこうである。
① 国民が借金しているのではなく政府が借金している。貸し手は個人や企業であり一人あたり858万円政府に貸している。
② 消費税収は諸外国に比しけして少なくない。消費税8%の現時点においてもそうである。
 国税の税目別収入のうち消費税が占める割合
        日本     27.9%
        アメリカ    0
        イギリス   26.3%
        ドイツ    35.4%
        フランス   50.5%
        イタリア   27.3%
   (2017年6月財政金融統計月報第782号から)
③ わが国には財政問題は存在しない。国債は自国通貨建てで、かつ90%以上が国内で消化されている。対外純資産328兆円27年連続世界一である。(2018.5.25閣議報告

 なぜこういうことになるのか。消費税を増税すれば消費が停滞し意図に反し減収となることはこれまでの実績が示している。財務官僚もこのようなことでGDPが停滞し国民が貧乏になるのを望んでいるわけではないだろう。特に日本の消費税は欧州と違い一律に課されるため増税は経済的弱者に厳しく経済格差を一層拡大させる。
 彼らに悪意の意図があるとは思えないが目指していることはまぎれもなく日本の貧困化である。
 組織の論理はあらゆるものに優先する。組織には掟があり、内部規範は絶対的である。最近の財務省の一連の不祥事がこのことを図らずも証明している。
 一方、だまされる側にも一定の責任があるだろう。嘘を真実と信じこんでしまう側である。財政に関する正しい知識が不足しているがゆえに易々とだまされてしまう。
 財政リテラシーの欠如は、いまや糖尿病などの生活習慣病と同じく国民の身体を蝕む深刻な経済の病である。

 福澤諭吉は学問とは何かについて定義している。

 「文字は学問をするための道具にすぎない。たとえば、家を建てるのに、かなづちやのこぎりといった道具がいるのと同じだ。
 かなづちやのこぎりは建築に必要な道具ではあるけれども、道具の名前を知っているだけで、家の建て方を知らないものは大工とは言えない。
 これと同じで、文字を読むことを知っているだけで、物事の道理をきちんと知らないものは学者とは言えない。いわゆる『論語読みの論語知らず』というのはこのことである。  『古事記』は暗誦しているけれども、いまの米の値段を知らないものは、実生活の学問に弱い人間である。
 『論語』『孟子』や中国の史書については詳しく知っているけれども、商売のやり方を知らず、きちんと取引ができないものは、現実の経済に弱い人間である。
 何年も苦労し、高い学費を払って西洋の学問を修めたけれども、独立した生活ができないものは、いまの世の中に必要な学問に弱い人間だと言える。
 こうした人物は、ただの『文字の問屋』と言ってよい。『飯を食う字引』にほかならず、国のためには無用の長物であって、経済を妨げるタダ飯食いと言える。
 実生活も学問であって、実際の経済も学問、現実の世の中の流れを察知するのも学問である。和漢洋の本を読むだけで学問ということはできない。」
 (福澤諭吉著斉藤孝訳ちくま新書『学問のすすめ』)

 知識だけでは何にも役に立たない。健全財政という罠にはまってしまって20年以上もデフレから脱却できずにのたうちまわっている現状を解決できなければ、どんな理屈をこねようと、国のためには福澤諭吉流に言えば ”無用の長物” ということになる。

2018年5月21日月曜日

健全財政の罠 4

 近代社会のシステムは複雑多岐で官僚も有能であることが求められる。法律を忠実に執行する能力が官僚に求められる。
 セクハラ疑惑で辞任に追い込まれた財務省の福田前事務次官は辞任会見で「われわれは財政の管理人にすぎない」と語った。
 管理人であれば与えられた目的を達成するのが任務である。管理人が政治に介入することなどあってはならない。
 ところがこれは建前である。現実にはわが国では官僚が政治の領域へ容赦なく踏み込んでいる。
 重要な財政政策は実質官僚が取り仕切っている。本来これは政治家が率先してリーダーシップを発揮すべき分野である。
 官僚にも言い分があるに違いない。なにも好きこのんで政治に首を突っ込んでいるわけではない。そうせざるを得ないからそうしているのだと官僚は弁明するだろう。ここにこの問題の核心の一端がある。
 明治初期多くの青年が読んだ本がある。「学問のすすめ」と「自助論」である。当時の大ベストセラーであり警世・啓蒙の書である。これ等の書は国際的にも地盤沈下した現代のわが国にとっても今なお色あせることがない書である。

 まず「自助論」から
 この本は大英帝国全盛期のサミュエル・スマイルズの書で冒頭近くに国家と国民の関係についてのくだりがある。
 「政治とは、国民の考えや行動の反映にすぎない。どんな理想を掲げても国民がそれについていけなければ、政治は国民のレベルまでひきさげられる。逆に、国民が優秀であれば、いくらひどい政治でもいつしか国民のレベルにまで引き上げられる。
 つまり、国民全体の質がその国の政治の質を決定するのだ。これは、水が低きに流れるのと同じくらい当然の論理である。
 立派な国民がいれば政治も立派なものになり、国民が無知と腐敗から抜け出せなければ劣悪な政治が幅をきかす。
 国家の価値や力は国の制度ではなく国民の質によって決定されるのである。」
(サミュエル・スマイルズ著竹内均訳三笠書房『自助論』)

 政治家のレベルが低いのは国民のレベルが低いからだ。政治家のレベルを上げるには国民のレベルを上げなければならない。 
 まして政治家を選挙で選ぶ民主主義国家においてはなおさらそうであろう。次図は国民が政治家をどう見ているかの国際比較である。

 


 日本の政治家がいかに信頼されていないかが分かる。日本国民は自分たちが選んだ政治家を信頼していない。 政治家が信用されなければ行政の執行を担う官僚への依存が高くなるのは理の当然である。
 ましてわが国は官僚国家といわれるほど官僚に対する依存度が高い。昔から ”お役人さん” は畏れられもしたが公平で信頼できる人でもあった。だが権限が増大するにつれ官僚の振舞いも次第に尊大になった。
 もともとの習性として官僚は放っておけばどこまでも権力を求める。
 だが官僚の専横を許したのは官僚の習性もさることながらそれ以上に国民と政治家の共同作業によるところが大きい。国民と政治家が長い期間をかけて役人の専横を醸成してきたからに他ならない。
 その結果、役人が政治を実質的に取り仕切るという最悪の事態となった。
 この事態を改善するのは容易ではない。言うは易く行うは難し、だが手を拱いていてはなにごとも変わらない。
 殷鑑(いんかん)遠からず。失敗の手本および問題解決の糸口は身近にある。福澤諭吉の「学問のすすめ」がそれである。少しも色あせていないばかりかすっかり自信をなくした今こそ読まれてしかるべき書である。

2018年5月14日月曜日

健全財政の罠 3

 官僚政治の国家、それがわが国の実態である。建前上は民主国家であるが一歩踏み込めば官僚による統制がゆきわたっている。
 近代国家では立法、行政、司法の三権が分立しそれぞれの役割を担っている。
 ところが日本では建前はそうであっても実質官僚がこれを壟断している。官僚が法律をつくり、運用し、かつ解釈までしている。

 わが国の法案は、議院内閣制であること、政党には党議拘束があることおよび提出時に法案に賛同する人数要件をクリアしなければならないなどのハードルがあり議員立法は少なく殆んどが政府提出法案である。議員立法を33本も成立させた田中角栄は例外中の例外である。
 法案は官僚が起案し内閣法制局を経て閣議決定され国会へ送られる。実質上官僚が法律を作っている。
 重要な政策、例えば骨太の方針は閣議決定される以前に官僚によって外堀が埋められ、内閣はこれを追認するだけ。
 運用については、文科省が獣医学部新設の申請受付を法律の根拠なく中止していたように、裁量行政が普通に行われている。裁量行政がもたらす権力は強大で国民だけでなく政治家までこれに悩まされている。
 官僚は司法にまで手を伸ばす。たとえば条例の解釈などに疑義が生じた場合、裁判所に持ち込まれるのはまれで、殆んどが地方の役所で解釈される。それでも解決しない場合中央にまで持ち込まれ当局がこれを裁定し決着がつく。

 このようにわが国の官僚の振舞いが極めて政治的であることは明らかである。
 古今東西の官僚制を研究したマックス・ウエーバーは「職業としての政治」のなかで政治家の本文と官僚のそれは異なるという。


 「官僚は間違っていると思う命令でも、誠実かつ正確に、あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように執行することが名誉である。このような倫理的規律と自己否定がなければ官僚機構は崩壊してしまう。
 これに反し国政を担う政治指導者は自分の行為の責任を自分一人で負うことが名誉である。責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、許されもしない。
 ゆえに政治的な意味において最も名誉ある優秀な官僚は政治家としては最も無責任かつ道徳的に劣っている。」

 これが有名な ”最高の官僚は最悪の政治家である” の由来である。官僚が自分の本分を離れ政治家の分野に踏み込めば意図せずとも無責任な結果を招くという。
 残念ながらわが国の官僚主導の財政策はその好個の例であり二重の意味で罪が深い。
 デフレ時のインフレ対策という誤った政策であること、およびそのことによる責任を一切負おうとしないことである。

 わが国は今も昔も官僚をエリートと思ってきた。官僚もまた自分たちをエリートと思ってきた。
 順調に国が発展しているときはなんら問題はなかった。ところがそうでなくなると誰かが責任を負わなければならなくなる。
 その責任は誰が負うべきか。これまでの考察では官僚のようにも思える。またそう主張する人も多い。
 だがよく調べてみるとそうでないことが分かる。真の責任は官僚ではなく他にある。
 そのヒントは近代日本の黎明期に求めることが出来る。これが分かれば自ずと解決策も浮かび上がってくる。

2018年5月7日月曜日

健全財政の罠 2

 「物価が持続的に下落する状況を脱し、再びそうした状況に戻る見込みがないこと」これが2006年3月小泉政権時の政府によるデフレ脱却の定義である。
 現状はデフレ脱却の兆しがあるとはいえ政府は未だデフレ脱却を宣言していない。
 デフレ時には物が売れない、物を買わない、投資を控える、貯蓄する、このため物価も上がらない。この結果経済活動が停滞しGDPが低迷する。
 したがってデフレ下では景気を刺激しなければならない。デフレ脱却には金融緩和だけでは限界がある。それはここ数年の異次元金融緩和にもかかわらず2%の物価目標に遠くおよばないことで明らかになった。そして財政支援が欠かせないことが徐々に識者の間で認識されるようになってきた。

 ところが現実にはこれに反する政策がとられている。財政健全化の名目で消費税増税と緊縮財政というデフレ対策と真逆のインフレ対策である。
 これは確実に景気を冷やす政策である。1997年以降の実績がそのことを示している。
 なぜこうなっているか、その原因は1980年代後半のバブル崩壊時にまで遡らなければならない。

 戦後の金融・財政政策は良くも悪くも官僚主導であった。バブル崩壊でそれまでの成功体験が根本から崩れ当局は経験したことがないデフレという事態に直面した。なにしろデフレが起きたのは大恐慌の時代以来のことであるから官僚にとっても未知の事態である。
 決められた法律の枠内で忠実に業務を遂行する官僚にとってこの経験したことがない事態の対処方法は最も不得意の分野である。

 そのことがまもなく証明された。バブル崩壊で自信を失くした日本はワシントン・コンセンサスを受け入れた。
 ワシントン・コンセンサスとは1980年代にブラジル・メキシコ・フィリピンなど途上国の累積債務問題の処方箋である。
 ワシントンに本拠を置くIMFなど国際機関の間には一定の合意がありその政策の骨子は市場原理・新自由主義的インフレ対策である。
 折りしも英米ではサッチャーとレーガンがこの政策で一定の成功を収めていた。
 このため渡りに船と思ったのだろうか日本は対外純資産国であるにもかかわらず累積債務問題を抱えた国と同じ処方箋を採用した。
 そして一旦これを採用したら変更不可。官僚の無謬性の原則がそれを許さない。
 先輩が決めた政策を変更すること、それは先輩に弓を引くことになる。そんなことなどできない、できっこない。
 いくらデフレ対策に悖ろうがそんなことはお構いなし。知ったことではない。外部からの意見には聞く耳を持たない。

 共同体の内の規範(内部規範)と外の規範(外部規範)は異なる。内部規範は絶対的であり外部規範は相対的である。ゆえに内部規範が常に外部規範に優先する。
 このことは官僚組織という共同体のみならず組織一般に共通する。マックス・ウエーバーが発見した社会学の法則がここにも生きている。

 財務省が推し進める消費税増税およびプライマリーバランス黒字化に象徴される緊縮財政策は政界、財界、言論界など日本国内に広くかつ深く浸透している。
 一強といわれる安倍内閣もこれを止めることができない。太平洋戦争前の陸軍の暴走を誰も止められなかったように。

 もしこの政策が今後も継続すれば経済格差拡大と貧困化がすすみ最悪の場合かってのアルゼンチンのように先進国から途上国へと逆戻りすることもあり得る。
 アニメ「母をたずねて三千里」は、一人の少年がイタリアからアルゼンチンへ出稼ぎにいった母を訪ねるストーリーである。現代の両国の関係を考えれば隔世の感がある。日本とていつまでも先進国であり続ける保障はない。
 現状ではデフレ下のインフレ対策という狂った政策の軌道修正は望めそうもない。
 このまま日本はズルズルと経済的に弱小国になり安全保障面でも外国の脅威に怯えるだけの国になるのだろうか。
 狂瀾を既倒に廻らす、起死回生の方法があるのだろうか。あるとせばそれは何か。

2018年4月30日月曜日

健全財政の罠 1

 セクハラ疑惑で辞任に追い込まれた福田前財務事務次官は辞任表明の記者会見で今回の不祥事と消費増税や財政再建とを関連づけないでほしいと述べ辞める間際まで職務に忠実であった。
 これに関連して思い出すのは7年前の東日本大震災発生直後のテレビのインタビューで震災復興財源について問われた武藤元財務事務次官の答えである。
 既に退官し民間のシンクタンクに転身していた同元次官
は震災復興税の創設を提案し辞めてもなお財務省の立場を忘れることはなかった。
 健全財政死守は現役OBを問わず財務官僚にとって職務上の教義であるのだろう。教義であればこれに反することは許されない。

 財務省設置法第3条第1項には財務省の任務の一つに健全な財政の確保がある。
 財務官僚はこれを「出ずるを制して入るを量る」方式、具体的には緊縮財政と増税で達成しようとしている。
 メルケル首相が推奨するドイツのシュヴァーベン地方の倹約で知られる主婦の生き方である。
 その結果どうなったか。国民の貧困化と国力の低下である。
 1997年以降消費税増税と緊縮財政によってたびたび景気が腰折れし失われた20年となった。(次図)


出典:IMF World Economic Outlook Databases(2018年4月)世界経済ネタ帳






 緊縮策を採用したEUと日本は低迷しているがそうではないアメリカ、中国は順調にGDPを伸ばしている。
 人口減がGDP頓挫の原因という見方もあるがわが国の高度成長期は今と同じく人口は伸び悩んでいたが生産性向上でこれを達成した。また人口増加率とGDP伸び率には確たる関連性はない。(次図)

                                       高橋洋一氏生成

 GDP低迷の原因を消費税増税と緊縮財政のみに帰することはできないがこれが第一の要因であることは間違いないだろう。
 財政健全化のためには国民貧困化も国力低下もやむなし。だれもこのようなことを意図するはずはないが結果としてこうなっている。
 いまやわが国は個人も企業も投資せずひたすら貯蓄に励み政府は財政健全化の旗印のもと増税と緊縮策を推進する。

 これがわが国の現実でありデータとして表れている。そしてこの施策は改められるどころかなお強化される予定となっている。なぜこのようなことになるのだろうか。

2018年4月23日月曜日

無宗教国家日本 9

 神道の土着の神々と飛鳥奈良時代以降すっかり習い性となった仏教の因果律、この二つが大多数の日本人が腹の底から信じかつ信仰の対象としているものである。日本人のエトスからこう言える。
 前者は本居宣長が定義したカミである。日本の神社の起源の殆んどは祟り神である。
 人びとが祟りを鎮めるために祀っているうちにいつのまにか祟り神が善神に変身する。
 たとえば大宰府へ左遷された菅原道真の死後、天変地異が多発しこれを祟りと畏れた人びとが怒りを鎮めるために祀ったカミがいつのまにか学問の神様になった。
 後者は善行を積めばよい報いがあり悪行を行えばそれなりの報いがある。
 そのため現世だけでなく来世のためにも熱心に神仏を拝む。お天道様が見ている。悪いことをすればいずれ天罰が下る。
 ところがキリスト教の予定説は因果律とは全く異なる。神が決めたことは絶対である。変更の余地などない。
 どんなに善行を積もうが、熱心に拝もうが神の決定を覆すことなどできない。これが予定説の本質である。
 因果律の思考が身に浸みついている日本人にとってはとても理解し難い。驚き以外のなにものでもない。

 ところで宗教に関しては日本ほど異質なところはない。日本には仏教、儒教、キリスト教と伝来したが、日本人はそれら宗教の戒律をことごとくとり払いまたは骨抜きにしてもとの宗教とは似ても似つかぬ日本独特のものにした。
 このようなことが許される日本は宗教の無法地帯と言われても反論の余地がない。
 だが山本七平氏はこれを宗教無法地帯と言わず日本教と名づけた。
 日本に入ると、仏教は日本教仏教派、儒教、キリスト教も同じく、日本教儒教派、日本教キリスト教派となる。いずれも日本教に吸収されてしまう。
 宗教には教義が欠かせない。ところがどの宗教も日本に入ると戒律をとり払われるため教義も無くなってしまう。
 教義を欠いた宗教に宗教性はない。人びとは教義に則って物事を理解し判断する。これなくして宗教とはいえない。

 ところが日本にはこれに対応するものとして「空気」があるという。
 これを発見したのは日本教の命名者でもある山本七平氏である。
 空気は一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の教義に劣らず人びとを呪縛する。一神教において教義は神との契約でありこれを守ることは絶対の義務である。
 これと同じように日本人にとって空気は絶対である。これに逆らうこともできないしこれから逃れることもできない。日本人にとって空気はそれほどの強制力をもつ。
 たとえば、太平洋戦争前、開戦の是非をめぐって日本海軍内で激論が戦わされたが最後に決定したのはその場の空気であった。
 敗戦後の1980年から11年間、130回余にわたる海軍反省会が行われた。その会での関係者の証言がある。
 400時間にもおよぶテープのなかで複数の出席者が語っている。
 「会議は主戦論で覆われとても反対できるような雰囲気ではなかった。あのときの空気はその場にいたものにしかわからない。」(NHKスペシャル)
 あらゆる生活の場で空気が日本人を呪縛する。宗教に関しても同じである。このため日本においては空気が教義の役目を果たしている。
 ということは空気が日本人のエトスを規定している。このようなことは日本以外では見られない。
 われわれはなにを信じようとも空気が支配し空気が呪縛する社会に生きている。空気が教義となっている日本教から逃れることはできない。
 これから逸脱することもできるだろうがそうすれば生きていけない。凧のひもが切れ無連帯となりアノミーとなるからである。

 ところで契約とか目的合理的精神など近代化に不可欠なものは日本的な空気とは無縁の存在である。
 これをわきまえた明治政府は一神教であるキリスト教にかわるものとして天皇を中心とした国家神道の政策により近代化に成功した。しかし太平洋戦争敗戦を機にこの体制は瓦解した。
 戦後一時期繁栄を遂げたものの永続せず社会的混乱、国力の衰退は時とともに度を増している。根本的原因は明治政府が確立した体制の崩壊にある。
 無宗教国家と揶揄されることになんとも思わない、むしろ自分は無宗教であると誇らしげにいう人さえ現れるまでに至った。
 だが近代法、近代科学、資本主義、民主主義これらすべては西欧のキリスト教文明に淵源をもつ。日本的な思考形態に閉じこもっていては国際的に孤立するばかりである。
 日本に生まれた以上日本教の呪縛から逃れなれないにしても国際社会で生きていくうえでは日本人には難解でも他の宗教の理解は不可欠である。
 敗戦を機に失われた精神のよりどころ、宗教意識の希薄さが社会の混乱と国力の衰退の第一の原因であることはほぼ間違いない。
 一時は復活したかに見えたがそれは過去の残滓にすぎないことも分かった。
 メディアを賑わす官民の不祥事、モラルの低下は目を覆わんばかりである。
 日本が近代化に成功したのは国家主導とはいえ強力な宗教的支えがあったればこそである。
 滅びるも宗教、救われるも宗教、個人も国家も、宗教にはそれほど潜在的な影響力がある。
 もはやかっての国家神道に戻ることはないだろう。さればいかなる道がのこされているか。答えは容易ではない。
 だがここまで考察したところによれば既存の宗教をもっと理解することこれ以外にない。新興宗教はそう容易に現れるとは思えない。
 既存の宗教のなかではユダヤ教やイスラム教はその戒律の厳格さから日本人にはあまりにも遠い存在である。
 仏教は戒律をとり払ってしまったためいまや宗教の体をなしていないまでになってしまった。
 かかる理由で既存の宗教の中ではキリスト教が主な研究対象となるであろう。近代化の揺籃となった宗教の研究という意味においてもそうである。
 なお研究対象と信じることは別とはいえそこは宗教である。截然と分かれていて無関係とも一概にはいえない。敗戦を機に瓦解した精神のよりどころの復活はこれらの研究から生まれるであろうことを信じて止まない。

2018年4月16日月曜日

無宗教国家日本 8

 宗教とは何か? 改めてこう問われると難解な質問であるがマックス・ウエーバーの答えは明快である。
 宗教とはエトス(行動様式)である。意識すると否とにかかわらず人びとの行動パターンを規定するもの、それが宗教であるという。
 この定義にしたがえば日本は宗教国家である。そこで問題となるのが日本人のエトスである。

 歴史の積み重ねが日本人のエトスを形成してきたことに違いはない。
 では日本人のエトスとは何か。それは平穏な時代には潜んで分からないが激動の時代にはそれがくっきりと浮かび上がってくる。
 江戸時代末期から明治にかけて起きた世界史的にもまれに見る革命である明治維新がそうである。
 維新の原因はさまざまな見方があるが、その後の日本人のエトスを規定したという意味において儒学の一派である崎門学の影響を見逃すことは出来ない。
 なかでも決定的役割を演じたのは儒学者の浅見絅斎(あさみけいさい)であろう。
 彼は革命を是認する思想の湯武放伐論を全否定した。君主に対する反抗は理由の如何にかかわらず不可であると主張した。なぜなら君主は絶対者であるからである。君主とは天皇である。
 彼のこの思想が徳川幕府の正統性に疑問を投げかける議論へと発展し倒幕への流れをつくった。
 彼の主著 靖献遺言(せいけんいげん)は幕末の勤王の志士にとってバイブルであり、戦前の日本人にも多く読まれた。
 その一貫した主張は忠義を尽くすことの大切さである。

 「人間にとって何故にそれほどまでに忠義が大切なのか。絅斎の次の言葉はこうした疑問に答えてくれよう。
 『父子兄弟は骨肉で、夫婦はすなわち情で親む者である。ただ君臣だけが、義で合する者である。だから、心を尽し身を忘れ、わずかばかりも遺すことのない者でなければ、利を貪り、義に背いてその君を後にすることになってしまいかねない。---文集雑説
 君臣の絆は、国家の大綱である。それは国家の存立を根本から支える命綱といってもいいすぎではない。
 にもかかわらずその君臣の絆は、父子や夫婦のそれと比べ、結合力の強さの点でどうしても及ばないものがある。
 父子や夫婦の絆は、放っておいても人はこれを忘れることはない。ところが君臣の絆は、ややもすれば人はこれを忘れかねない。
 義による結びつきは、骨肉や情による結びつきほど人間の身に切実なものではないからである。ところがそうなれば、国家はたちまちのうちに崩壊の憂き目にあい、民族は辛酸をなめなければならない。」(石田和夫著明徳出版社『日本の思想家13 浅見絅斎』)

 浅見絅斎が50歳のとき起きた江戸城松之廊下事件で忠義を貫きあだ討ちした赤穂浪士四十七士を当然の如く擁護した。
 忠臣蔵のドラマは事件発生から300年以上経過したいまもなお12月の風物詩となっている。
 個人が規範的に正しいことをすればすべてがうまくいく、社会も国家も。
 その他のことを想い患うな。契約とか組織とかそのようなものに捉われていれば人間が純粋でなくなる。
 たとえば人と約束する場合、欧米人ならあらゆる場合を想定して微に入り細に入り契約を取り交わすが日本人はそんなことは水くさいと考える。
 日本の契約はたいてい「本契約に定めのない事項については双方誠意をもって協議する」旨の文言がある。欧米ではこんなものはない。
 日本的契約を極論すれば、 ”細かい取り決めは不要。おれの目をじっと見よおれが約束を破ると思うか” といったところか。腹芸は得意中の得意だ。

 浅見絅斎の思想の根底にあるのは国家をあたかも一つの家族のように考えこれを守り抜く姿勢である。そしてそれは個人の純粋な動機と規範的に正しい行動によって担保される。
 日本人のエトスはあくまでも歴史の積み重ねで獲得されてきたものであり浅見絅斎はこれを解き放す役割を担った。
 最後にこのようなエトスをもった国民の宗教のあるべき姿について考えてみたい。