2017年7月17日月曜日

通貨発行益 2

 通貨発行益に関連する政策を考えるにあたり、まず通貨発行益の源泉となる貨幣発行の規模を把握しておかなければならない。
 平成28年の紙幣製造は14.87兆円(財務大臣が定めた平成28年日銀券の製造枚数による)、硬貨製造は0.16兆円(平成28年造幣局の年銘別貨幣製造枚数データによる)である。
 紙幣が貨幣全体の99%を占めているのに対し硬貨は全体の1%にすぎない。
 硬貨はたとえ製造原価との差額がただちに通貨発行益になるとしても全体に与える影響は限られる。したがって通貨発行益に関しては主に紙幣がその対象となる。
 通貨発行益に関連して、特に日銀による市中からの国債買いオペレーションについては最近特に否定的な論調が目立つ。通貨発行益そのものに懐疑的な見方をしている
 野口悠紀雄氏は、通貨発行益があるのだから貨幣は増発すればするほど政府の利益になるはずとの意見に真っ向から反論している。

 「日銀は、実際には、当座預金を増やすことによって国債を購入している。そして、超過準備に対しては、これまで金利がつけられてきた(日銀当座預金の残高は、17年4月末現在で約356兆円だが、法定準備預金は約19兆円だ。残りの337兆円が超過準備だ)。
 したがって、国債利子収入をうるためのコストはゼロではない。このコストを差し引いたものをシニョリッジと考えるべきだろう。
 ただし、これまでは付利するといっても0・1%であったので、国債の利回りよりも低かった。しかも、当座預金残高もさほど大きくなかった。
 このため、利払い費の総額はわずかだった。12年度においては、315億円だった。
 しかし、異次元緩和によって当座預金残高が増えたので、それに伴い、利払いも、13年度836億円、14年度1513億円、15年度2216億円と増えた。
 マイナス金利政策で減ったが、16年度で1873億円と、まだ大きい。
 ところが、金融緩和政策から脱却すると、先に述べたように、プラスの付利を復活させる必要がある。
 2%という日銀のインフレ目標が達成されたとすると、付利と国債利回りは逆ザヤになり、シニョリッジはマイナスになってしまうのだ。
 予想される損失は、日銀の自己資本(=引当金勘定+資本金+準備金)約7・6兆円をはるかに上回っている。したがって、日銀は、数十兆円の規模の債務超過に陥る。
 そうなると、日銀は政府への納付金を停止する。日銀納付金は税と同じようなものだから、これがゼロになるというのは、国民負担の増大だ。それにとどまらず、資本注入が必要になるかもしれない。
 しかし、これには強い反対があるだろう。また、中央銀行が債務超過になった事例はないので、どうしたらよいのかの目安もない。」(現代ビジネス2017.6.28野口悠紀雄氏寄稿『異次元緩和の先に、日銀が【巨額債務超過】に陥る可能性』から)


 野口氏はいますぐ金融緩和から脱却しなければ日銀が政府への納付金を納められず、あまつさえ債務超過になり資本注入が必要になるかもしれないと言っている。
 日銀法では、日銀が債務超過に陥った場合の規定がない。債務超過が想定されていない。

 この問題の論点は二つ。
政府と日銀の関係および日銀の債務超過。
 政府と日銀の関係は、親会社・子会社の関係にあることは既に述べた。親会社・子会社の関係であればバランスシートも一体となる。
 日銀の独立性は金融政策の独立性であって財務的に独立性があるわけではない。現に硬貨の発行益や国債の利子収入は政府へ上納されている。
 これとは逆に、仮に日銀が【巨額債務超過】に陥り資本注入が必要となれば政府による救済が考えられる。
 具体的には政府が増資して日銀の債務超過を解消する。親会社・子会社の関係で債務超過を補填する。
 政府による中央銀行の債務超過補填については見解が分かれる。これを問題視する意見と何ら問題ではないという見方である。
 通貨発行益に関連する政策は日銀債務超過問題に見られるように最終的には政府の財政と関係している。

2017年7月10日月曜日

通貨発行益 1

 政府と日銀は貨幣を発行する権限を有している。政府は硬貨という貨幣を、日銀は紙幣という貨幣を発行する権限である。
 発行するための製造原価は国民の貨幣に対する信任の維持および偽造を助長する恐れがあるため公表されていない。次表は貨幣の製造原価の推定値である。
 紙幣は財務省印刷局から日銀への引渡し価格(平成12年度特別会計ベース)、硬貨はキャッシング・クレジット情報局の「お金の原価」から。
1円玉→       3円      1,000円札→ 14.5円
5円玉→       7円      2,000円札→ 16.2円
10円玉→   10円        5,000円札→ 20.7円
50円玉→   20円       10,000円札→ 22.2円
100円玉→ 25円
500円玉→ 30円

 貨幣は低額の硬貨を除けば安い原価で製造されていることが分かる。
 このように硬貨も紙幣も発行額と原価に差額があるがバランスシート上両者の取り扱い方は異なる。
 まず硬貨は政府の要請により造幣局で製造される。製造された硬貨はただちに日銀に交付され貨幣として流通する。
 この交付により政府のバランスシートには硬貨の交付額が政府預金として資産に計上されるが負債には計上されない。
 相対する日銀のバランスシートには同額の硬貨が資産に計上され、負債には政府預金として計上される。
 政府のバランスシートには資産にのみ計上されるため製造原価と発行額の差額が通貨発行益(シニョリッジ)となる。 この通貨発行益は一般会計に繰り入れられる。
 次に紙幣にも通貨発行益はあるが、その意味は硬貨のそれとは異なる。
 紙幣は日銀の要請により印刷局で印刷される。印刷された時点では単なる紙片にすぎない。この紙片は日銀が市中銀行から国債などを購入してはじめて貨幣となり流通する。
 国債購入の結果は、日銀バランスシートには国債が資産に、日銀当座預金が負債にそれぞれ計上される。
 相対する市中銀行のバランスシートには売却した国債にかわり日銀当座預金が資産に計上される。
 具体的には市中銀行に紙幣が振り込まれるのではなく日銀当座預金に売却した国債の額に対応した数字が追加されるだけである。数字が追加されればいつでも市中銀行は日銀当座預金から引き出すことができる。
 それゆえこの数字が追加された時点で単なる紙切れが紙幣として流通することになる。
 日銀のバランスシートの資産勘定の国債には付利されるが、負債勘定の日銀当座預金には付利されない。
 この国債に付利されるという意味において紙幣発行にも通貨発行益があるということになる。
 紙幣は原価がいくら安くともバランスシートの資産と負債に同額が計上されるのでそのままでは通貨発行益とはならないが、硬貨は交付されれば日銀の資産に計上されるだけで負債には計上されないので発行価格と製造原価の差額がそのまま通貨発行益となる。

 ところで貨幣は製造されただけでは単なる金属片や紙切れにすぎないが、主に政府が発行した国債などを日銀が市中銀行から購入した結果日銀のバランスシートの負債勘定に日銀当座預金として日銀券が計上されてはじめて貨幣となる。ここで改めて政府と日銀の関係を確認しておこう。
 まず日銀法第八条で資本金は1億円とし、このうち政府の出資額は5千5百万円を下回ってはならないと規定されている。
 次に同法二十三条の役員の任命については、総裁、副総裁、審議委員、監事は内閣が、理事及び参与は財務大臣がそれぞれ予め決められた手続きに基づき任命すると規定されている。
 さらに同法五十一条の経費の予算については、事業年度開始前に、財務大臣に提出して認可を受けなければならないと定められている。
 このように資本の過半と人事権および予算認可権が政府にあり、政府と日銀の関係は親会社・子会社の関係といえる。
 貨幣発行・通貨発行益につながる国債発行および日銀による国債やETFの市中買い入れには賛否両論がありしばしば議論の対象となる。
 通貨発行益に関連する政策はデフレーションやインフレーションに係わり景気にも影響するので当然といえば当然である。

 硬貨と紙幣の概念および政府と日銀の関係をしっかり腑に落とし込み、通貨発行益に関連する政策について考えてみたい。

2017年7月3日月曜日

選挙のお国柄

 イギリスの選挙の予想は難しい。古くは第二次世界大戦で対ドイツ戦で勝利したイギリスのウインストン・チャーチルが1945年7月の選挙で敗れ野党に転落した。
 戦争の英雄は平和時には不要であると冷徹に審判したイギリス人ならではの感覚であろう。
 最近は先月、EUとの離脱交渉に備えて政権基盤の強化を狙って2020年予定の下院選挙を前倒し実施して大勝するかと思われたメイ首相率いる保守党が敗北した。片や労働党議員の一部から求心力不足だと指摘されていたコービン党首が活躍した。
 メイ首相率いる保守党の財政緊縮策に対しコービン党首率いる労働党は緊縮財政策の撤廃を要求していた。
 イギリス国民は保守党が提案した国民投票でブレクジットを選択したが、同じ保守党が公約に掲げた財政緊縮策を拒否した。
 日本流にいえば是々非々だ。いかにもイギリス人らしい。

 一方、日本の選挙では時ならぬ風が吹き荒れることが多い。
 この風によって小泉チルドレン、小沢ガールズ、そして昨日の小池チルドレンなど大量の新人議員を輩出してきた。
 日本では有権者が風に流されやすいことを熟知している政治家が勝利してきた。
 郵政民営化を問う選挙ではたとえ殺されてもいいと開き直ったり、都政のため自ら身を切る改革が必要と宣言して給与を半減するなどパーフォーマンスに長けた政治家が選挙で圧勝した。いつも見慣れた光景である。

 英国の選挙を政策優先の優等生の選挙にたとえれば、日本の選挙はアイドルの総選挙といったところか。
 日本の選挙は候補者が声を張り上げ連呼する。中身はスローガン、スキャンダルの暴き合い、中傷合戦など。品のよさではアイドルの選挙がはるかに上をいっている。
 イギリス流の政策中心の選挙は議会制民主主義の発祥の国にふさわしく仰ぎ見るものがある。だが万事イギリス流がいいというわけでもない。
 こじんまりまとまり汚職を排し、利権を排した優等生選挙。優等生であるがゆえに無駄なく効率的ではあるがそこには政治でもっとも要求される活力に乏しい。
 日本の選挙を見ていると喧騒と軋轢と無駄、建設と破壊が同時進行する大都会のダイナミズムがある。そこから何かが生まれるかもしれないという期待感がある。
 政治家に要求されるのは政策とその実行力。有権者は清廉潔白であることだけを求めていない。
 ただしそこに政治に要求される公私、是非の調整機能が欠けていては混乱は混乱でしかなくそこから何も生まれない。

2017年6月26日月曜日

将棋人気

 中学3年生の藤井聡太四段が勝ち星を重ねるにつれメディアの取材が増えついに新聞の号外が出るほど藤井少年の人気が過熱している。
 なにしろプロデビュー以来負けなしの28連勝と白星を重ねているのだから当然といえば当然だが。
 田中寅彦九段は藤井四段の強さは「異次元」であり今後どれだけ強くなるのか「想像もつかない」という。その他のベテラン棋士も同じような感想を述べている。
 彼の活躍で将棋界は活況を呈し嬉しい悲鳴をあげている。江戸時代に現在の将棋が確立されて以来これほどの将棋人気があっただろうか。将棋界にとっても文字通り「異次元」の人気だ。
 藤井四段の強さの秘密はネットとAIにありといわれる。 以前であれば先輩棋士の棋譜を筆写やコピーしていたが今やネットで簡単に見ることができる。
 腕試しも道場に通わなくてもネットでできる。プロ棋士も登録しているネットの道場はレーティング制になっており練習相手にこと欠かない。
 難解な局面ではソフトに問いその答えで腕を磨くことができる。
 これらはやろうと思えば誰でもやれる。将来、藤井四段の最大のライバルは既存の棋士よりこれらネットとAIを駆使するであろう同年代以下の少年たちになるかもしれない。
 将棋を日本国外へ普及する活動は行われているものの駒が漢字で書かれているなどの理由で外国への普及は遅れている。
 このため残念ながら藤井四段がその力を世界に試すことが出来ず、ファンもそれを見ることができない。
 インドで発祥した将棋のルーツは西欧、中国、韓国、タイ、日本へと伝わった。
 日本の将棋は、普及が国内に止まっていること、獲った駒を再使用できること、プロの対局は着座、プロの女性が一人も誕生していないことなど日本的なあまりにも日本的なゲームである。
 囲碁も以前は着座対局であったが国際化がすすみ椅子対局となった。
 将棋は日本人のしかも男性にしか指せないと自慢げに言った将棋好きの猛者を思い出す。
 たしかに女流プロはいるがプロの女性は一人もいない。まさか着座対局を義務付ける現在のルールではスタイルが悪くなると女性たちが将棋を敬遠しているわけでもなかろうが・・・。
 将棋の国際化はともかく女性が将棋向きでないとはいえない。様々な分野で男勝りの女性がいることは今さら説明するまでもない。将棋も例外ではなかろう。
 現に将棋に似たチェスでは1991年に最高位グランドマスターを15歳で獲得し、その後世界ランク1位になったハンガリーの女性チェスプレイヤー、ユディット・ボルガーがいる。彼女は今でも女性チェスプレイヤーの憧れの存在である。
 将棋もいつの日か女性のプロ棋士が誕生し活躍する時代がくるに違いない。
 将棋は日本特有の伝統文化であり将棋界にヒーローが出現したことは明るい話題であるとともに、弱冠14歳の少年が社会現象となるほど人気になるのは平和ならではの光景である。
 願わくは藤井少年が人気という”うたかた”に惑わされないことを祈る。
 熱しやすくさめやすい移り気な国民性、なかでもその先導役のメディアにあたら希有な才能の芽が摘まれることだけは見たくないものだ。天才は稀にしか出現しないのだから。

2017年6月19日月曜日

前文科事務次官の乱

 加計学園に関連する話題の主役・前文部科学事務次官の前川喜平氏についての情報が次第に明るみになってきた。
 彼は2017年1月20日次官を退任したが、退任の理由は本人や巷間でいわれているような天下り斡旋の違法行為ではなく出会い系バー通いであったらしい。
 彼のスキャンダルで累が及ぶのをさけるため安倍政権が彼に詰め腹を切らせたのだという。それが証左に天下り斡旋について処分が下されたのが2017年3月30日であった。
 また文科省の"総理のご意向”なる文書を作成したのは文科省から内閣府へ出向している文科省高等教育局課長補佐であった。
 文書の目的は獣医学部新設が事実上家計学園に決定したことへの弁明と捉えられている。本省の意向が働いているという見方が強い。
 獣医学部新設については、既に2015年6月30日に 5-1項で閣議決定されている。
 
 獣医師養成系大学・学部の新設に関する検討
(1)現在の提案主体による既存の獣医師養成でない構想が具体化し、
(2)ライ フサイエンスなどの獣医師が新たに対応すべき分野における具体的な 需要が明らかになり、かつ、
(3)既存の大学・学部では対応が困難な場合 には、
(4)近年の獣医師の需要の動向も考慮しつつ、全国的見地から本年 度内に検討を行う。 
               ( )内は追記

 前川氏はこの4項目が挙証されないのに獣医学部新設が事実上決定されたのは内閣府のゴリ押しで行政が歪められたと主張している。
 だが、上記4項目の挙証とりまとめ所管は文科省であり期限は2016年3月末であった。
 この期限に間に合わず獣医学部新設が事実上認められた。しかも2016年9月16日の国家戦略特区ワーキンググループ議事録で文科省、農水省、内閣府出席のもと確認されている。
 本件については文科省と内閣府の主張が異なり真相は藪の中であるが、公開された議事録から判断すれば”総理のご意向”とか"官邸の最高レベルの意向”の余地はない。

 それにしても前川氏は時の人にふさわしくその言動はユニークだ。
 幾つか列挙してみよう。

・出会い系バー通いをする。彼の先輩の元次官も通っていたらしく、無理に解釈すれば先例踏襲といえなくもない。少なくとも免罪符の一つにはなる。
・出会い系バー通いの理由を問われて、女性の貧困の実地調査だと強弁している。内心はともかく決して間違ったことをしたとは言わない。誤りを認めない役人の無謬性の原則を守っている。
・実家は政治家に強いコネクションを持つ実業家、実妹は元文科相の妻という毛並みの良さ。
・官僚は虎の威を借りないと動かないことを熟知している。"官邸の最高レベルの意向”を文科省から内閣府へ出向した部下がメモに残している。
・獣医学部新設検討については文科省はやるべきことはやったが、農水省の協力も得られず、戦略特区の旗印のもと内閣府に強引に押し切られたと責任転嫁する。

 元経産官僚の岸博幸氏は面従腹背を座右の銘にする前川氏を官僚のクズといったが、上のように官僚に要求されるであろう資質を十二分に兼ね備えている。
 クズどころか最も官僚らしい官僚、出世をひたすら目指す官僚の鑑。
 言葉では、入省時の青雲の志を語り、行動では頑固なまでに役所の掟に従う。
 退官後の一連の発言の真意は本人にしか分からないが、これがもとで一時的にせよ安倍政権の支持率が10%以上も下落した。
 政権に対し敵対の意図はないというがこれもまた前川流の面従腹背なのだろうか。

2017年6月12日月曜日

自殺について 6

 経済的困窮は主な自殺原因の一つである。日本は経済が停滞しているとはいえ国際的には貧困とはいえない。2016年のG7一人当たりGDPでも5位と決してかけ離れて悪いわけではない。
 社会不安が高まれば人びとの精神もそれにつれて不安定となり自殺率も高くなりがちである。ところが日本は戦後70年以上平和を維持してきた。外国で頻発するテロや過激なデモも殆んどなく治安は安定している。
 生活保護を受けている人や老人など社会的弱者の孤独死や自殺が時々メディアで話題となる。弱者保護の福祉が行き届いていないのが原因であろうがこれとて日本がとりたてて遅れているとも思えない。
 どこからみても日本の高自殺率を説明できない。心理学者や精神病理学者たちが社会の閉塞感とか日本社会特有の甘えの構造などから説明したとしても無駄な努力だ。真の原因を突き止めることは難しいだろう。個人的な性格や精神をいくら分析したところで自殺の原因が他にあれば徒労に帰す。
 なぜあの子が自殺したのか分からない。友達も学校も自殺の原因について思い当たらない。一番身近な両親でさえ分からない。傍から見て自殺する原因について皆目見当がつかない。芥川龍之介が”ぼんやりした不安”というように自殺者本人でさえハッキリした原因が分からないまま自殺するのだから始末に負えぬ。

 本当の要因はなにか? 日本の若者の高い自殺率からそれを解剖してみよう。
 既に検証したように1937~1943年と1958~1966年は自殺率急減期であった。
 前者は現人神であった昭和天皇のもと戦時中の日本であり、後者は高度成長真っ盛りでいずれも国民がハッキリした目標を持ち一致団結していた。
 これとは逆に1990年代以降は日本人の信念が揺らぎ自信をなくした時期で自殺率が急増した時期である。
 世相の変化をいち早く敏感に捉えるのはいつの時代でも若者と相場はきまっている。
 下図はG7各国の若者の死亡率比較(2014年)で日本の若者の自殺率の高さが突出している。
日本の若者の自殺数の高さと原因
 図についての国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所自殺予防総合対センター山内貴史研究員(認知行動科学・疫学)のコメント。
 「日本以外の各国では、若年層の死因はがんなどの病気、交通事故などのほうが自殺よりも多くなっています。
 ところが、日本では中高年の自殺死亡率は下がったものの、若年層の精神的な弱さが目立っています。
 他国のように、ストレスの対処法を教育で教わっていないからではないでしょうか。」 
   (2015.5.12日刊SPAニュースから)

 ストレスの対処法を学校で教えるべきか疑問であるがこれを教えれば自殺率減少には多少役立つかもしれない。が、ストレス対処法を知らないのが自殺の原因であるというのはいかにも表層的な見方に過ぎる。極度のストレスによって人は自殺するかもしれないが問題となるのはそこまでに至る原因である。

 このようなケースでは社会科学的分析にしくはない。日本は終戦を機に秩序が一変した。具体的には天皇が現人神から人間天皇・象徴天皇へと変わった。
 三島由紀夫は著書『英霊の声』で「などてすめらぎはひととなりたまいし」と嘆いた。
 このときから日本の権威が失われた。 ここでいう権威とは物事の是非を判断すること、なにが正しくてなにが正しくないかを決めること。
 極論すれば法の創造である。平明にいえば社会の法とは別に生き方の法があり、これが創造者が不在となった。このことが意味することはとてつもなく大きい。
 かって家庭においてはなにが正しくてなにが正しくないかを父親が決めていた。父親とは父性のことで母親がその役を担うこともある。父性の欠如は国中を荒れまくり戦後70年を過ぎてもなおその猛威は収まることを知らない。ただこれのみにて自殺率急増を説明できない。
 見逃せないのは90年代後半はこの父性の欠如に加え年功序列、終身雇用をはじめそれまでの社会の枠組みが音をたてて崩れはじめ新自由主義的な思想が跋扈しグローバル化がすすんだ。
 西欧の自由主義国から、社会主義の優等生と揶揄されるような日本にとってこの波は暴風雨である。
 いわば厚い親の庇護のもとにいた子どもがいきなり荒野に放り出されたようなものだ。
 グローバル化は格差拡大の弊害はあるものの個人主義・自由主義のアメリカにとってはその延長線上でしかなく、伝統ある福祉国家ヨーロッパのセーフティネットを揺らすこともない。
 新自由主義的思想の荒波はグローバル化となって、父性の欠如から権威が失墜した日本を容赦なく襲い、従来の社会構造を粉々に破壊し人びとを無連帯化した。
 この被害者は鈍感な大人ではなく敏感な若者である。若者たちは意識すると否かにかかわらずこれを敏感に受け止めた。下図はそのことを示している。
 
(2016.1.12 PRESIDENT Online舞田敏彦氏作成データ)

 90年代の若者の自殺率急増とその後上昇の一途を辿る若者の自殺率は異常としか言いようがない。
 経済的困窮、社会不安、将来への絶望、このような心配だけで日本の若者が自殺に走るのではない。仮にそうであれば日本より他の先進国のほうがもっと自殺率が高い筈である。
 繰り返し言おう。日本の若者が自らの生命を放棄するのは父性の欠如に伴う権威の崩壊と社会構造が根底から覆ったことによる無連帯・アノミーが原因である。わが国の自殺対策はこのことを踏まえ策定されなければならない。

2017年6月3日土曜日

自殺について 5

 人間にとって一番たいせつなものは連帯、これが喪失されれば正常な人間も異常になる。異常になった人間は精神のバランスを欠き自殺に走る。無連帯社会で自殺率が高くなる原因となる。
 社会の連帯を強固にし自殺を減らすにはどうすればいいか? 
 デュルケームが提案したのは、職業集団や同業組合によって凝集力・結束力を高めることであった。
 「宗教社会、家族社会、政治社会などのほかにも、これまで問題にされなかったもう一つの社会がある。
 それは、同種類のすべての労働者、あるいは同じ職能のすべての仲間がむすびついて形成する職業集団ないしは同業組合である。(中略)
 職業生活は生活のほとんどすべてであるから、組合のおよぼす作用は人びとの仕事のどんなささいな点にも感じとられ、人びととの仕事もある集合的方向にむけられることになる。
 このようなわけで、同業組合は、個人をとり囲み、精神的孤立状態から個人を引き出すにたるだけの十分なものをそなえている。」(デュルケーム著宮島喬訳『自殺論』)
 職業集団は、このように精神的孤立から自己本位的自殺を防ぐだけでなく、集団であるから個々人の上に十分に君臨し、その限界のない欲望に歯止めをかけるという道徳的役割をも担いアノミー的自殺を防いでいるという。

 デュルケームのこの自殺防止提案をわが国に活かすにはわが国特有の自殺の原因を知らなければならない。 
 日本独特の自殺の原因として、侍の切腹、捕虜になるより死を選ぶ、生き恥を晒さないなど、恥の文化に起因するものがある。
 これらは自殺によって名誉を守る、責任をとる、累が身辺や所属する集団に及ぶことを防ぐなど、自殺が文化の一部となっている。
 また自殺を禁じた宗教が不在で自殺については中立もしくは同情的でさえある。
 これらは日本特有のものかもしれないが自殺率の高さを説明できない。自殺についての許容度と自殺率の関連図(下図)がそのことを示している。



 自殺を禁じた西欧キリスト教諸国は今や自殺について最も寛容となっている、日本の自殺に対する許容度は中立的である。片や自殺率は西欧諸国が低く日本は高い。
 自殺が文化であれば自殺に対し許容度は高くなる筈だが日本の場合これに該当しない。
 自殺の原因として日本人の性格を挙げる説もある。
 「すみません」、「ご迷惑をおかけしました」などの言葉を残して自殺する。
 いわゆる内向きな性格、自分に厳しい生真面目な性格が起因しているという。
 しかしこの生真面目さは最近はじまったわけではない。自殺を性格から割り出そうとするのは自殺を顔形から判断するのと同じように無理がある。

 日本人は機軸となる宗教をもたない。元旦に神社にお参り、結婚式で牧師に誓い、葬式にお坊さんにお経をあげて頂くように宗教に対して融通無碍である。
 東南アジアの小乗仏教の厳格な僧侶が日本のお坊さんを見たらびっくり仰天するだろう。
 このように機軸となる宗教が微弱であり精神的に安定しているとは言えずこれが原因で高い自殺率となっているという。
 強い信仰心がなく精神の自由度が高すぎることはともすると孤立しがちであり自殺への歯止めもまた弱いことを意味し、ある程度説得的ではある。
 だが日本人の信仰心の薄さは性格と同じように今にはじまったわけでなくもともとのものである。これも近年のわが国の高い自殺率を説明する決め手とはいい難い。

 他に社会、経済、福祉などから説明しようものなら的外れもいいところだ。社会不安、経済困窮、貧弱な福利厚生、どれもわが国の高自殺率の説明にはふさわしくない。
 それでは先進国で最も高い自殺率の原因となるもの、有力な要因はなにか?