アメリカの経済格差の主要な原因は、一部の富裕層がロビー活動によって政治、経済のルールを自己の都合のいいように変え独占的に超過利益を得、富を中下流層から収奪し上流へと移動させたことである。
スティグリッツ教授はこれをレントシーキングによる格差拡大と呼んでいる。
レントシーキングにあたって、富裕層はそれがすべての人々の利益になると大衆を信じ込ませてきた。
レントシーキングの典型としてスティグリッツ教授は金融を例に挙げ、一部富裕層が市場と政治に対する影響力を、自分たちに都合よく利用し、残りの人々を犠牲にして収益を得る様をつぎのように述べている。
「最も悪名高いレントシーキングの形態 --- 近年になって最もみがきのかかった手法 --- は、金融界が略奪的貸付や濫用的クレジット業務を通じて、貧困者層と情報弱者層から大金を搾り取るというものだ。
貧困者ひとりひとりはそれほど金を持っていなくても、大勢の貧困者から少しずつ巻き上げれば、莫大な儲けを手に入れることができる。
政府に社会正義の感覚 --- もしくは経済全体の効率性に対する懸念 ---が少しでもあれば、これらの活動を禁止するための措置が施されただろう。
貧困者から富裕層へ金が移動するプロセスでは、かなりの量の資源が失われる。
だからこそ、これはマイナスサム・ゲームと呼ばれるのだ。
しかし、実態がどんどんあきらかになってきた2007年ごろでさえ、政府は金融界の行為を禁止しようとはしなかった。
理由は明快。金融界はロビー活動と選挙支援に巨額の資金を投じてきており、その投資が実を結んだのだ。
ここで金融界をとりあげる理由のひとつは、現在アメリカ社会で見られる不平等が、金融界から強い影響を受けてきたことにある。
今回の世界金融危機の発生に金融界が果たした役割は、誰の目にもあきらかだ。
金融界で働く人々でさえ責任を否定していない。
内心では、業界内の別部門に責任があると思っているのかもしれないが・・・。
とはいえ、わたしがこれまで金融界について述べてきたことは、現在の不平等を創り出してきたほかの経済主体にもあてはまる。
近代資本主義は複雑なゲームと化しており、少し頭が切れるくらいでは勝者になれないが、多くの場合、勝者は感心できない特性を持ち合わせている。
法律をかいくぐる能力や、法律を都合よくねじ曲げる能力や、貧困者をふくむ他人の弱みにつけ込む意志や、必要とあれば ”アンフェアー”なプレーをする意志だ。
このゲームで成功している達人のひとりは、『勝負は問題ではない。重要なのはどうプレーするかだ』という昔の金言をたわごとと切り捨てる。
重要なのは勝つか負けるかだけなのだ。
市場は勝ち負けの基準をはっきりと示してくれる。
持っている金の量だ。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ著楡井浩一・峯村利哉訳徳間書店『世界の99%を貧困にする経済』)
アメリカが先進国の中で所得階層間の移動性が一番少なく機会均等がそこなわれているがその原因は何か。
主要な原因は不平等の拡大によって生じた機会均等の喪失である。
不平等の拡大によって親の子供に対する投資に格差が生じ、これが所得階層間の移動性を低下させているとスティグリッツ教授は述べている。
「中下層の子供たちが良い教育を受けられる可能性は、上層と比べて絶望的に低い。
特に全大学生の70パーセントを受け入れる公立大学で、学費の伸びが所得の伸びを大きく上回っているため、親の所得の重要性は高まる一方だ。
学資ローンに対する公的助成制度が格差を埋めてくれるのではないか、と疑問に思う読者もいるかもしれない。
しかし、残念ながら答えはノーであり、ここでも金融セクターが機能不全に少なからぬ責任を負っている。
今日では、さまざまな逆インセンティブが働く金融市場と、権力濫用を防ぐための規制の欠如が合わさった結果、学資ローンの支援制度は、貧困層の人々を助けるどころか、さらなる苦境に追い込む可能性があるのだ。(じっさい、多くの人々を苦境に追い込んでいる)。
金融セクターは政治力を使って、個人破産による学資ローン債務の免除を禁じさせた。」(前掲書)
アメリカの経済格差と機会均等の喪失は進むばかりで、それをなくそうという働きかけすらない。
アメリカの政治制度は、”1人1票”から ”1ドル1票” の様相を呈し市場の機能不全を是正するどころかそれを助長しているという。
金の力がすべてを支配する社会に成り果て民主主義そのものが危機に瀕しているともいう。
150年前にリンカーン大統領が友人宛の手紙で懸念したことが不幸にも的中したことになる。
スティグリッツ教授のアメリカ経済に対する分析は、自らクリントン政権下で、大統領経済諮問委員会に参加、委員長に就任し、アメリカの経済政策の運営にたずさわった経験、および学者としての透徹した識見に裏打ちされ、余人を以っては代えがたい説得力あるものと言える。
アメリカは最盛期は過ぎたかもしれないが今なお覇権国であり世界に対する影響力も大きい。
まして同盟国であるわが国に対してはなおさらそうである。
次にアメリカ社会がわが国に及ぼす影響について考えてみよう。
2015年6月29日月曜日
2015年6月22日月曜日
リンカーンの懸念 2
次に富める少数者による支配について、ジョセフ・E・スティグリッツ コロンビア大学教授の著作について考えてみたい。
ジョセフ・E・スティグリッツ この著名なアメリカのノーベル賞経済学者は、幼少のころ、既にアメリカはアメリカン・ドリームなどといわれる”機会均等の国” は看板だけであることを身をもって感じた。
この幼少時の体験は彼のその後の人生に影響を及ぼした。
「わたしはアマースト大学3年生のとき、専攻を物理学から経済学に変更した。
社会が機能するしくみを解明したい、という激しい思いに突き動かされたのである。
わたしが経済学者になった目的は、単に不平等や差別や失業を理解するだけでなく、アメリカを蝕むこれらの問題に何らかの手を打つことだった。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ著峯村利哉訳徳間書店『世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠』)
スティグリッツ教授はアメリカの不平等の概況をつぎのように述べている。
「アメリカの物語は、次のように要約できる。
金持ちはもっと金持ちになり、金持ちの中の金持ちはそれよりももっと金持ちになる。
貧乏人はもっと貧乏になり、もっと数が増え、中流層が空洞化していく・・・・・。
じっさい、中層の所得は停滞もしくは減少し、最上層との格差は広がる一方なのだ。
家計所得における格差は、賃金格差と財産格差に連動しているだけでなく、資本所得(利子や配当から得られた所得)の格差にも連動しており、いずれの格差も幅が広がりつづけている。
不平等全般が拡大するにつれ、賃金と給与の不平等も拡大してきた。
たとえば過去30年間で見ると、賃金の低い人々(下位90パーセント)は、賃金の伸びがおよそ15パーセントだったのに対し、上位1パーセントの伸びは約150パーセント、上位0.1パーセントの伸びは300パーセント以上に達した。
財産をめぐる状況は、もっと劇的に変化している。
金融危機に先立つ四半世紀、すべての人々の財産が増加する中でも、富裕層の財産の増加ペースは群を抜いていた。
前に述べたとうり、住宅価値に多くを依存する中下層の富は、バブル価格にもとづく実態なき富と言ってよかった。
じっさい、すべての人々が金融危機で損害をこうむったが、上層の富がすぐさま回復したのに対し、中下層の富は回復しなかったのである。
大不況の中で株価が落ち込み、富裕層の財産が打撃を受けたあとでさえ、上位1パーセントに属する人々は、平均的アメリカ人の225倍もの富を保有していた。
この数字は、すでに100倍を超えていた1962年もしくは1983年と比べてもほぼ倍増している。
資本所得の分野でも上層が不当に大きな分け前を得ていることは、富の不平等を考えれば驚くにはあたらない。
危機の前の2007年で見ると、彼らがふところに入れた資本所得は、全体のおよそ57パーセントに達した。
資本所得の”増加分”の分配がもっとかたよっていることも、驚くにはあたらない。
1979年以降、上位1ペーセントが増加分の約8分の7を手にしたのに対し、下位95パーセントの取り分は3パーセントを下回ってきた。
これらの数字は憂慮すべきものだが、勢いづく格差拡大の実態を見誤らせる危険も秘めている。
アメリカにおける不平等の現況を知りたいなら、ウォルトン一族を例にとってみるといい。
<ウォルマート>帝国のこの6人の後継者たちは、巨額の遺産を意のままに使うことができるが、697億ドルという額は、アメリカ社会の下位30パーセントの財産総額とひとしいのだ。
下層の人々はほとんど富を持っていないため、この数字は見た目ほどインパクトをもたらさないかもしれないが・・・・。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ著楡井浩一・峯村利哉訳徳間書店『世界の99%を貧困にする経済』)
アメリカは先進国の中で最大の格差社会となっている。
所得階層間の移動確率が少なく機会均等も先進国で最低である。階級社会であるヨーロッパ以上に機会均等がない。
さらに理不尽なのは上位1パーセントもしくは上位0.1パーセントの多くは、富の源泉をもたらしたインターネット、トランジスタなどの発明家ではなく、世界を破滅に導いた投資家や銀行家達で占められていることである。
アメリカはなぜこのように格差が拡大し機会均等が失われてしまったのか。
次稿でその原因についてスティグリッツ教授の分析を検証しよう。
ジョセフ・E・スティグリッツ この著名なアメリカのノーベル賞経済学者は、幼少のころ、既にアメリカはアメリカン・ドリームなどといわれる”機会均等の国” は看板だけであることを身をもって感じた。
この幼少時の体験は彼のその後の人生に影響を及ぼした。
「わたしはアマースト大学3年生のとき、専攻を物理学から経済学に変更した。
社会が機能するしくみを解明したい、という激しい思いに突き動かされたのである。
わたしが経済学者になった目的は、単に不平等や差別や失業を理解するだけでなく、アメリカを蝕むこれらの問題に何らかの手を打つことだった。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ著峯村利哉訳徳間書店『世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠』)
スティグリッツ教授はアメリカの不平等の概況をつぎのように述べている。
「アメリカの物語は、次のように要約できる。
金持ちはもっと金持ちになり、金持ちの中の金持ちはそれよりももっと金持ちになる。
貧乏人はもっと貧乏になり、もっと数が増え、中流層が空洞化していく・・・・・。
じっさい、中層の所得は停滞もしくは減少し、最上層との格差は広がる一方なのだ。
家計所得における格差は、賃金格差と財産格差に連動しているだけでなく、資本所得(利子や配当から得られた所得)の格差にも連動しており、いずれの格差も幅が広がりつづけている。
不平等全般が拡大するにつれ、賃金と給与の不平等も拡大してきた。
たとえば過去30年間で見ると、賃金の低い人々(下位90パーセント)は、賃金の伸びがおよそ15パーセントだったのに対し、上位1パーセントの伸びは約150パーセント、上位0.1パーセントの伸びは300パーセント以上に達した。
財産をめぐる状況は、もっと劇的に変化している。
金融危機に先立つ四半世紀、すべての人々の財産が増加する中でも、富裕層の財産の増加ペースは群を抜いていた。
前に述べたとうり、住宅価値に多くを依存する中下層の富は、バブル価格にもとづく実態なき富と言ってよかった。
じっさい、すべての人々が金融危機で損害をこうむったが、上層の富がすぐさま回復したのに対し、中下層の富は回復しなかったのである。
大不況の中で株価が落ち込み、富裕層の財産が打撃を受けたあとでさえ、上位1パーセントに属する人々は、平均的アメリカ人の225倍もの富を保有していた。
この数字は、すでに100倍を超えていた1962年もしくは1983年と比べてもほぼ倍増している。
資本所得の分野でも上層が不当に大きな分け前を得ていることは、富の不平等を考えれば驚くにはあたらない。
危機の前の2007年で見ると、彼らがふところに入れた資本所得は、全体のおよそ57パーセントに達した。
資本所得の”増加分”の分配がもっとかたよっていることも、驚くにはあたらない。
1979年以降、上位1ペーセントが増加分の約8分の7を手にしたのに対し、下位95パーセントの取り分は3パーセントを下回ってきた。
これらの数字は憂慮すべきものだが、勢いづく格差拡大の実態を見誤らせる危険も秘めている。
アメリカにおける不平等の現況を知りたいなら、ウォルトン一族を例にとってみるといい。
<ウォルマート>帝国のこの6人の後継者たちは、巨額の遺産を意のままに使うことができるが、697億ドルという額は、アメリカ社会の下位30パーセントの財産総額とひとしいのだ。
下層の人々はほとんど富を持っていないため、この数字は見た目ほどインパクトをもたらさないかもしれないが・・・・。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ著楡井浩一・峯村利哉訳徳間書店『世界の99%を貧困にする経済』)
アメリカは先進国の中で最大の格差社会となっている。
所得階層間の移動確率が少なく機会均等も先進国で最低である。階級社会であるヨーロッパ以上に機会均等がない。
さらに理不尽なのは上位1パーセントもしくは上位0.1パーセントの多くは、富の源泉をもたらしたインターネット、トランジスタなどの発明家ではなく、世界を破滅に導いた投資家や銀行家達で占められていることである。
アメリカはなぜこのように格差が拡大し機会均等が失われてしまったのか。
次稿でその原因についてスティグリッツ教授の分析を検証しよう。
2015年6月15日月曜日
リンカーンの懸念 1
第16代アメリカ大統領エイブラハム・リンカーン、歴代アメリカ大統領の中でも常に人気 1、2位を争うこの偉大な大統領は、暗殺される5ヶ月前、南北戦争で勝利が見えたころ前面の南軍ではなく背後の金融資本家の脅威について、友人のウイリアム・エルキンス宛に次の手紙を書いている。
” 私には、近い将来の危機がみえる。この国のことを考えると、ぞっとし、身震いする。・・・・・企業が王座につき、高位高官の人々の汚職の時代が続くだろう。
この国のお金の力は、人々の偏見に働きかけて、自分の治世を長引かせようと努めるだろう。
そしてついにあらゆる富は少数者の手に握られ、この共和国、人民が支配する国は、破壊される。・・・・エイブラハム・リンカーン1864年11月21日 ”
(集英社新書ヘレン・カルディコット著岡野内正/ミグリアーチ慶子訳『狂気の核武装大国アメリカ』)
まず日本のジャーナリスト堤未果の著作から。
彼女は反米であった父親の影響もあってかアメリカの負の部分に異常に光をあて自らの主張を繰り返している。
「いま世界で進行している出来事は、単なる新自由主義や社会主義を超えた、ポスト資本主義の新しい枠組み、『コーポラティズム』(政治と企業の癒着主義)にほかならない。
グローバリゼーションと技術革命によって、世界中の企業は国境を超えて拡大するようになった。
価格競争のなかで効率化が進み、株主、経営者、仕入れ先、生産者、販売先、労働力、特許、消費者、税金対策用本社機能にいたるまで、あらゆるものが多国籍化されてゆく。
流動化した雇用が途上国の人件費を上げ、先進国の賃金は下降して南北格差が縮小。
その結果、無国籍化した顔のない 『1%』 とその他 『99%』 という二極化が、いま世界中に広がっているのだ。
巨大化して法の縛りが邪魔になった多国籍企業は、やがて効率化と拝金主義を公共に持ち込み、国民の税金である公的予算を民間企業に移譲する新しい形態へと進化した。
ロビィスト集団が、クライアントである食産複合体、医産複合体、軍産複合体、刑産複合体、教産複合体、石油、メディア、金融などの業界代理として政府関係者に働きかけ、献金や天下りと引きかえに、企業よりの法改正で、”障害”を取り除いてゆく。
コーポラティズムの最大の特徴は、国民の主権が軍事力や暴力ではなく、不適切な形で政治と癒着した企業群によって、合法的に奪われることだろう。」
(堤未果著岩波新書 『(株)貧困大国アメリカ』 あとがき)
彼女は ”貧困大国アメリカ” シリーズ3部作でアメリカにおいては、食料、医療、軍需、金融、石油、メディアおよび立法府に至るまで、顔のみえない ”1%” がアメリカ国民の ”99%” の人々の暮らしそのものを蝕んでいる実態を克明に描写している。 彼女は、顔のみえない”1%”による政治への癒着の枠組みコーポラティズムがアメリカ国民を貧困化させアメリカ国民の主権をも奪っていると断じている。
コーポラティズムの極めつけは企業による立法府の買収だろう。
「 『アメリカという国をすきなようにしたければ、働きかけるべきは大統領でも上下院でもない。最短の道は、州議会だ』
ネイション誌のワシントン特派員で、メディア改革推進団体フリープレス創始者のジョン・ニコラスは断言する。
50州からなる合衆国は、それぞれの州に独自の法律と自治権が与えられている。
日本のように大きな財源と権限を持つ中央政府とは違い、アメリカの連邦政府は外交や軍といった業務を中心とした、究極の地域主権だ。
憲法も、共通のアメリカ合衆国憲法と、各州で適用される独自の州憲法の二つがある。
州は州法の制定と施行、課税権を担い、教育や労働、環境や暮らし、公衆衛生に医療福祉など、州民の日常生活に最も影響する分野での、強い権限と責任を手にしている。
『つまり』 とニコラスは言う。
『州を制する者は、国民生活の隅々まで及ぶ影響力を手にできるということです』 」(前掲書)
実質上アメリカ人の生活を左右する州議会への働きかけはどのようになされるのか。
それは米国立法交流評議会(American Legislative Exchange Council = ALEC )を通じてなされているという。
ALECは、州議会に提出される前段階の法案草稿を、議員が民間企業や基金などと一緒に検討するための評議会である。
「ALECは企業ロビィストや政治団体でもなく、NPO(特定非営利団体)として登録されている。
だがその実態は、通常のロビィストや政治団体よりはるかに強大な力を持つ、非常に洗練されたシステムだ。
『ALECは、”フォーチューン 500” の上位 100 企業の半数がメンバーになっています。政策草案をつくっていたのは、誰もがよく知っている、多国籍企業の面々でした(中略)
評議会で出される法案は、どれも企業にとって望ましい内容になっている。
税金、公衆衛生、労働者の権利、移民法、民間刑務所、刑事訴訟法、銃規制、医療と医薬品、環境とエネルギー、福祉、教育などテーマは多岐にわたり、それぞれ業界ごとに後押しするしくみだ。
”ここでは議員と企業群がそれぞれ別々の部屋で法案を検討し、採決をとるのです。
ただし企業側には拒否権があり、基本的に議員はそのまま受け入れ、それぞれの州に持ち帰りますね。
そして今度はそれを、自分の法案としてそのまま州議会に提出するのです” 』(前掲書)
銃乱射事件が起きてもいっこうに銃規制されないとか、受刑者を量産するシステムの刑務所とか、われわれには、にわかに理解できないことがあるが、その背景にはこのような州法制定の経緯があった。
アメリカ社会の負の部分を暴いた彼女の著作は、その部分に限るとはいえ説得力あるものといえる。
” 私には、近い将来の危機がみえる。この国のことを考えると、ぞっとし、身震いする。・・・・・企業が王座につき、高位高官の人々の汚職の時代が続くだろう。
この国のお金の力は、人々の偏見に働きかけて、自分の治世を長引かせようと努めるだろう。
そしてついにあらゆる富は少数者の手に握られ、この共和国、人民が支配する国は、破壊される。・・・・エイブラハム・リンカーン1864年11月21日 ”
(集英社新書ヘレン・カルディコット著岡野内正/ミグリアーチ慶子訳『狂気の核武装大国アメリカ』)
リンカーンは同書簡でこの国の行く末について
”金融資本家に対する懸念は今次の戦争にもまして大きい、神のご加護あらんことを ” と結んでいる。
”金融資本家に対する懸念は今次の戦争にもまして大きい、神のご加護あらんことを ” と結んでいる。
リンカーンが暗殺されて150年経った今、アメリカの現状はどうか。
リンカーンが懸念した富める少数者による支配、この実態について書かれた日米の著作を検証し、そしてこれが日本におよぼす影響について考えてみたい。
リンカーンが懸念した富める少数者による支配、この実態について書かれた日米の著作を検証し、そしてこれが日本におよぼす影響について考えてみたい。
まず日本のジャーナリスト堤未果の著作から。
彼女は反米であった父親の影響もあってかアメリカの負の部分に異常に光をあて自らの主張を繰り返している。
「いま世界で進行している出来事は、単なる新自由主義や社会主義を超えた、ポスト資本主義の新しい枠組み、『コーポラティズム』(政治と企業の癒着主義)にほかならない。
グローバリゼーションと技術革命によって、世界中の企業は国境を超えて拡大するようになった。
価格競争のなかで効率化が進み、株主、経営者、仕入れ先、生産者、販売先、労働力、特許、消費者、税金対策用本社機能にいたるまで、あらゆるものが多国籍化されてゆく。
流動化した雇用が途上国の人件費を上げ、先進国の賃金は下降して南北格差が縮小。
その結果、無国籍化した顔のない 『1%』 とその他 『99%』 という二極化が、いま世界中に広がっているのだ。
巨大化して法の縛りが邪魔になった多国籍企業は、やがて効率化と拝金主義を公共に持ち込み、国民の税金である公的予算を民間企業に移譲する新しい形態へと進化した。
ロビィスト集団が、クライアントである食産複合体、医産複合体、軍産複合体、刑産複合体、教産複合体、石油、メディア、金融などの業界代理として政府関係者に働きかけ、献金や天下りと引きかえに、企業よりの法改正で、”障害”を取り除いてゆく。
コーポラティズムの最大の特徴は、国民の主権が軍事力や暴力ではなく、不適切な形で政治と癒着した企業群によって、合法的に奪われることだろう。」
(堤未果著岩波新書 『(株)貧困大国アメリカ』 あとがき)
彼女は ”貧困大国アメリカ” シリーズ3部作でアメリカにおいては、食料、医療、軍需、金融、石油、メディアおよび立法府に至るまで、顔のみえない ”1%” がアメリカ国民の ”99%” の人々の暮らしそのものを蝕んでいる実態を克明に描写している。 彼女は、顔のみえない”1%”による政治への癒着の枠組みコーポラティズムがアメリカ国民を貧困化させアメリカ国民の主権をも奪っていると断じている。
コーポラティズムの極めつけは企業による立法府の買収だろう。
「 『アメリカという国をすきなようにしたければ、働きかけるべきは大統領でも上下院でもない。最短の道は、州議会だ』
ネイション誌のワシントン特派員で、メディア改革推進団体フリープレス創始者のジョン・ニコラスは断言する。
50州からなる合衆国は、それぞれの州に独自の法律と自治権が与えられている。
日本のように大きな財源と権限を持つ中央政府とは違い、アメリカの連邦政府は外交や軍といった業務を中心とした、究極の地域主権だ。
憲法も、共通のアメリカ合衆国憲法と、各州で適用される独自の州憲法の二つがある。
州は州法の制定と施行、課税権を担い、教育や労働、環境や暮らし、公衆衛生に医療福祉など、州民の日常生活に最も影響する分野での、強い権限と責任を手にしている。
『つまり』 とニコラスは言う。
『州を制する者は、国民生活の隅々まで及ぶ影響力を手にできるということです』 」(前掲書)
実質上アメリカ人の生活を左右する州議会への働きかけはどのようになされるのか。
それは米国立法交流評議会(American Legislative Exchange Council = ALEC )を通じてなされているという。
ALECは、州議会に提出される前段階の法案草稿を、議員が民間企業や基金などと一緒に検討するための評議会である。
「ALECは企業ロビィストや政治団体でもなく、NPO(特定非営利団体)として登録されている。
だがその実態は、通常のロビィストや政治団体よりはるかに強大な力を持つ、非常に洗練されたシステムだ。
『ALECは、”フォーチューン 500” の上位 100 企業の半数がメンバーになっています。政策草案をつくっていたのは、誰もがよく知っている、多国籍企業の面々でした(中略)
評議会で出される法案は、どれも企業にとって望ましい内容になっている。
税金、公衆衛生、労働者の権利、移民法、民間刑務所、刑事訴訟法、銃規制、医療と医薬品、環境とエネルギー、福祉、教育などテーマは多岐にわたり、それぞれ業界ごとに後押しするしくみだ。
”ここでは議員と企業群がそれぞれ別々の部屋で法案を検討し、採決をとるのです。
ただし企業側には拒否権があり、基本的に議員はそのまま受け入れ、それぞれの州に持ち帰りますね。
そして今度はそれを、自分の法案としてそのまま州議会に提出するのです” 』(前掲書)
銃乱射事件が起きてもいっこうに銃規制されないとか、受刑者を量産するシステムの刑務所とか、われわれには、にわかに理解できないことがあるが、その背景にはこのような州法制定の経緯があった。
アメリカ社会の負の部分を暴いた彼女の著作は、その部分に限るとはいえ説得力あるものといえる。
2015年6月1日月曜日
核兵器と戦争 8
2発もの原子爆弾を投下されたわが国は核兵器の恐さが身に浸みている。だが、核戦争によってもたらされるであろう核の冬の怖さまで理解しているとは限らない。
オーストラリア出身の女医ヘレン・カルディコットは核の冬の怖さそしてそれがいつでも起こりうることについて述べている。
「1985年にアメリカ大統領府科学技術政策局(OSTP)から発行された、『見通し(SCOPE)』には、次のように書かれていた。
『人間の生存を支えている農業や社会の仕組みが完全に失われてしまうと、地球上のほぼすべての人類が消滅してしまう。
戦争に参加している国も参加していない国も同じだ。
このような脆弱性が核戦争につきまとうということは、十分に理解されているとはいえない。
主要な交戦国が危険にさらされるというだけでなく、事実上、すべての人類が大規模な核兵器の使用という脅威にさらされ、人質になっている・・・・・』(中略)
では、核の冬はどの程度の核爆発で発生するのだろうか?
1000個の100キロトン爆弾が100の都市を爆破する事態が発生するだけで十分だ。
それはいつでも起こりうることは、現在、アメリカとロシアがもつ核攻撃能力と攻撃目標計画をみるだけで明らかだ。」
(集英社新書ヘレン・カルディコット著岡野内正/ミグリアーチ慶子訳『狂気の核武装大国アメリカ』)
彼女は同書で、「世界の兵器庫の中には合計すると地球上のすべての人々を32回『過剰殺戮』できるだけの核爆弾がある。」と言っている。
わが国は ”核を持たず、造らず、持ち込まず” の非核3原則を堅持してきた、そのうえ”核について語らず” の実質非核4原則がまかり通っている。
核について議論すれば、その人は”右より” ”好戦的” などのレッテルを貼られる。
日本人の核に対する接し方は、危機に遭遇したダチョウが頭を砂の中に突っ込み危機から目を背ける動作にも似ている。
”君子危うきに近よらず” よろしく、 ”怖い核には触れぬ” の流儀で、万事ことなかれ主義が蔓延し現実逃避を決めこんでいる。
国際社会において核についての取り決めは核不拡散条約(NPT)に規定されている。
この条約は1970年国連の常任理事国でもある5カ国(アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国)だけが核兵器を開発、保有してもよくその他は開発も保有も禁止ということになっている。
現在190カ国が調印している。この条約の改定には先の5カ国の全会一致が義務づけられている。5カ国には拒否権があるのだ。
この条約の目指すところは核軍縮である。ところが現実はアメリカもロシアも核軍縮ではなく増強に励んでいる。
同条約に調印していながらインドとパキスタンは核兵器を開発、保有しており黙認されている。イスラエルは非加盟国の立場で核兵器を勝手に開発、保有している。
イランについては核の平和利用、軍用にかかわらずイスラエルが強硬に反対しアメリカを始めとした西欧社会がそれに同調している。
これが世界の現実だ。ことほどさように理不尽、不平等な条約であるが、わが国もこの条約に調印している。
このような環境下においてわが国はいかに処すればよいか。
まず核について議論もしないというのは論外である。人類の運命をも左右するものについて目を背けていては何の解決にもならない。まして平和を呼び込めるわけでもない。
戦後わが国はアメリカの核の傘のもとに庇護されてきた。ために他国の脅威を未然に防げたのも事実であろう。今後もそれで安泰かというと必ずしもそうとはいえない。
仮にわが国が他国から核攻撃を受けた場合、核の傘をさしていたアメリカがわが国に核攻撃を行った相手に直ちに核で反撃するとは考え難い。
アメリカが核反撃すれが当然アメリカも核攻撃の対象となる。自らも核攻撃の対象となる危険を冒すことをアメリカ国民が許すであろうか。
アメリカ政府は外交戦略として同盟国への核の傘を否定していないが、アメリカの殆んどの識者は同盟国への核の傘を否定している。
冷戦時代にフランスがロシアの核脅威からアメリカの核の傘に頼らず独自に核開発した理由もこの疑念からであると言われている。
アメリカの核の傘がやぶれ傘であれば日本のとるべき道は二つに一つ。
現状のやぶれ傘のままでいくか、独自に核の傘を造るかの何れかとなる。
世界の現実をみれば、現状でいいという結論は安全保障上問題がある。世界におけるアメリカの相対的な力の低下を考えればなおさらそうである。
それでは独自に核の傘を造るべしということになるが、ことはそう簡単ではない。
日本が核開発をするには障碍が多い。隣国とくに中国は日本の核武装に対しては、核不拡散条約(NPT)その他あらゆる理由をつけて武力行使も辞さずのかまえで阻止にかかるであろう。
核についてのイランに対するイスラエルの姿勢からもこのことが言える。
同盟国アメリカも日本の核武装には加担しないと思われる。アメリカが核不拡散条約(NPT)に反する政策に同意しないことはイラク、イランに対し制裁を行ったことでも明らかだ。
さらになにより日本国内の世論が核武装を許さない。
このようにとるべき道をふさがれてしまっては如何ともし難い。
打開策の一つとして、日本が唯一の被爆国であるという立場を最大限生かした方策がある。そしてそのことを世界に発信することである。
今でもわが国は、唯一の被爆国として ”核なき世界を” と発信しているが、日本の発信力は弱く効果を発揮しているとは言い難い。冷徹な国際社会は、日本をアメリカの庇護国に過ぎないと見ている可能性を排除できない。
世界は力あるものに耳を傾ける。平和への訴えについても例外ではあり得ない。
力とは何か。それは経済力であり政治力であり軍事力であろう。
なかんずく軍事力は裸にされた真実だ。現代においては特に核兵器を伴う軍事力が重要性を増している。
国際社会では弱小国の主張は無視される。いくら被爆国とはいえ軍事力を背景としない日本の主張も等閑に付される。 それが世界の現実だ。
核兵器をもたなかった独裁者イラクのフセインやリビアのカダフィーはあっけなく倒された。冷酷であるがこれが現実である。
日本が発信力は高めるには核兵器の開発・所有が手っ取り早い方策であるが前述のようにそれは簡単には行かない。
核については国内でも様々な議論がある。単独核武装、核もちこみ、核シェアリング等々。
だがこれらは政府ないし政党間で公に議論されていない。
唯一の被爆国として核軍縮のリーダーシップをとるには、核を忌避するのでなく核の現実を直視すべきである。
国連改革が遅々として進まないのは国連が拒否権をもつ5カ国の常任理事国によって壟断されているからと言われている。
国連と同じく核不拡散条約(NPT)も同じ状況にある。矛盾に充ち理不尽・不平等なこの条約を改革するには唯一の被爆国であるわが国がもっともふさわしい立場におかれている。
核攻撃を受けたわが国はひたすら核のない平和な世界を訴えてきたが現実を見る限り徒労に終わっている。
被爆国の立場を有効に生かしてきたとは言い難い。
この立場を生かすにはなによりも情報発信力がなければならない。このためにも国内で核について本格的な議論がなされることが求められる。
核攻撃を受けたわが国が核について本格的に議論をはじめれば大きな転機となるかもしれない。
世界の核軍縮実現という最終目的のためには単なる平和願望だけでは何事も達成されないことだけは確かである。
オーストラリア出身の女医ヘレン・カルディコットは核の冬の怖さそしてそれがいつでも起こりうることについて述べている。
「1985年にアメリカ大統領府科学技術政策局(OSTP)から発行された、『見通し(SCOPE)』には、次のように書かれていた。
『人間の生存を支えている農業や社会の仕組みが完全に失われてしまうと、地球上のほぼすべての人類が消滅してしまう。
戦争に参加している国も参加していない国も同じだ。
このような脆弱性が核戦争につきまとうということは、十分に理解されているとはいえない。
主要な交戦国が危険にさらされるというだけでなく、事実上、すべての人類が大規模な核兵器の使用という脅威にさらされ、人質になっている・・・・・』(中略)
では、核の冬はどの程度の核爆発で発生するのだろうか?
1000個の100キロトン爆弾が100の都市を爆破する事態が発生するだけで十分だ。
それはいつでも起こりうることは、現在、アメリカとロシアがもつ核攻撃能力と攻撃目標計画をみるだけで明らかだ。」
(集英社新書ヘレン・カルディコット著岡野内正/ミグリアーチ慶子訳『狂気の核武装大国アメリカ』)
彼女は同書で、「世界の兵器庫の中には合計すると地球上のすべての人々を32回『過剰殺戮』できるだけの核爆弾がある。」と言っている。
わが国は ”核を持たず、造らず、持ち込まず” の非核3原則を堅持してきた、そのうえ”核について語らず” の実質非核4原則がまかり通っている。
核について議論すれば、その人は”右より” ”好戦的” などのレッテルを貼られる。
日本人の核に対する接し方は、危機に遭遇したダチョウが頭を砂の中に突っ込み危機から目を背ける動作にも似ている。
”君子危うきに近よらず” よろしく、 ”怖い核には触れぬ” の流儀で、万事ことなかれ主義が蔓延し現実逃避を決めこんでいる。
国際社会において核についての取り決めは核不拡散条約(NPT)に規定されている。
この条約は1970年国連の常任理事国でもある5カ国(アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国)だけが核兵器を開発、保有してもよくその他は開発も保有も禁止ということになっている。
現在190カ国が調印している。この条約の改定には先の5カ国の全会一致が義務づけられている。5カ国には拒否権があるのだ。
この条約の目指すところは核軍縮である。ところが現実はアメリカもロシアも核軍縮ではなく増強に励んでいる。
同条約に調印していながらインドとパキスタンは核兵器を開発、保有しており黙認されている。イスラエルは非加盟国の立場で核兵器を勝手に開発、保有している。
イランについては核の平和利用、軍用にかかわらずイスラエルが強硬に反対しアメリカを始めとした西欧社会がそれに同調している。
これが世界の現実だ。ことほどさように理不尽、不平等な条約であるが、わが国もこの条約に調印している。
このような環境下においてわが国はいかに処すればよいか。
まず核について議論もしないというのは論外である。人類の運命をも左右するものについて目を背けていては何の解決にもならない。まして平和を呼び込めるわけでもない。
戦後わが国はアメリカの核の傘のもとに庇護されてきた。ために他国の脅威を未然に防げたのも事実であろう。今後もそれで安泰かというと必ずしもそうとはいえない。
仮にわが国が他国から核攻撃を受けた場合、核の傘をさしていたアメリカがわが国に核攻撃を行った相手に直ちに核で反撃するとは考え難い。
アメリカが核反撃すれが当然アメリカも核攻撃の対象となる。自らも核攻撃の対象となる危険を冒すことをアメリカ国民が許すであろうか。
アメリカ政府は外交戦略として同盟国への核の傘を否定していないが、アメリカの殆んどの識者は同盟国への核の傘を否定している。
冷戦時代にフランスがロシアの核脅威からアメリカの核の傘に頼らず独自に核開発した理由もこの疑念からであると言われている。
アメリカの核の傘がやぶれ傘であれば日本のとるべき道は二つに一つ。
現状のやぶれ傘のままでいくか、独自に核の傘を造るかの何れかとなる。
世界の現実をみれば、現状でいいという結論は安全保障上問題がある。世界におけるアメリカの相対的な力の低下を考えればなおさらそうである。
それでは独自に核の傘を造るべしということになるが、ことはそう簡単ではない。
日本が核開発をするには障碍が多い。隣国とくに中国は日本の核武装に対しては、核不拡散条約(NPT)その他あらゆる理由をつけて武力行使も辞さずのかまえで阻止にかかるであろう。
核についてのイランに対するイスラエルの姿勢からもこのことが言える。
同盟国アメリカも日本の核武装には加担しないと思われる。アメリカが核不拡散条約(NPT)に反する政策に同意しないことはイラク、イランに対し制裁を行ったことでも明らかだ。
さらになにより日本国内の世論が核武装を許さない。
このようにとるべき道をふさがれてしまっては如何ともし難い。
打開策の一つとして、日本が唯一の被爆国であるという立場を最大限生かした方策がある。そしてそのことを世界に発信することである。
今でもわが国は、唯一の被爆国として ”核なき世界を” と発信しているが、日本の発信力は弱く効果を発揮しているとは言い難い。冷徹な国際社会は、日本をアメリカの庇護国に過ぎないと見ている可能性を排除できない。
世界は力あるものに耳を傾ける。平和への訴えについても例外ではあり得ない。
力とは何か。それは経済力であり政治力であり軍事力であろう。
なかんずく軍事力は裸にされた真実だ。現代においては特に核兵器を伴う軍事力が重要性を増している。
国際社会では弱小国の主張は無視される。いくら被爆国とはいえ軍事力を背景としない日本の主張も等閑に付される。 それが世界の現実だ。
核兵器をもたなかった独裁者イラクのフセインやリビアのカダフィーはあっけなく倒された。冷酷であるがこれが現実である。
日本が発信力は高めるには核兵器の開発・所有が手っ取り早い方策であるが前述のようにそれは簡単には行かない。
核については国内でも様々な議論がある。単独核武装、核もちこみ、核シェアリング等々。
だがこれらは政府ないし政党間で公に議論されていない。
唯一の被爆国として核軍縮のリーダーシップをとるには、核を忌避するのでなく核の現実を直視すべきである。
国連改革が遅々として進まないのは国連が拒否権をもつ5カ国の常任理事国によって壟断されているからと言われている。
国連と同じく核不拡散条約(NPT)も同じ状況にある。矛盾に充ち理不尽・不平等なこの条約を改革するには唯一の被爆国であるわが国がもっともふさわしい立場におかれている。
核攻撃を受けたわが国はひたすら核のない平和な世界を訴えてきたが現実を見る限り徒労に終わっている。
被爆国の立場を有効に生かしてきたとは言い難い。
この立場を生かすにはなによりも情報発信力がなければならない。このためにも国内で核について本格的な議論がなされることが求められる。
核攻撃を受けたわが国が核について本格的に議論をはじめれば大きな転機となるかもしれない。
世界の核軍縮実現という最終目的のためには単なる平和願望だけでは何事も達成されないことだけは確かである。